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弩螺魔(弐部)




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調べてみた

加納随天 架空人物

内藤勝介 1552年、信長が謀叛を起こした山口教継を攻めた赤塚の戦いでは先手衆の一人として出陣している。以後、消息不明。

1559年、前田利家は織田信長の勘気を蒙り蟄居。”桶狭間の戦い”では、信長に無断で参加。

1561年、森部の戦いでも無断参戦する。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。
18 無名さん


調べてみた

織田信勝(信行)
1551年、熱田神宮寺座主に対して自ら判物を発給し、その権益を保証した。これが信行(勘十郎信勝)の史料上の初見である。

1558年、信長が清洲城へ呼び寄せたとき、河尻秀隆によって殺害された。

池田と滝川
池田恒興の父・恒利は滝川貞勝の三男で、池田政秀の娘(信長の乳母)を娶り、婿養子として迎えられた。

滝川貞勝の長男・一勝(資清)は滝川一益の父親。

滝川一益と池田恒興の関係は、一益が信長に仕えるにあたって先に仕えていた恒興に仲介してもらったと言われています。
19 無名さん


太田和泉守信定(牛一) 1527 - 1613 『信長公記』の著者。
斯波義統の家臣で、弓の名手。義統亡き後、弓の腕を認められ織田信長の直臣となる。
本能寺の変後、丹羽長秀 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼に仕えた。
20 無名さん


織田信定
織田信秀の父であり、織田信長の祖父。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。
天文7年(1538年)11月2日に死去。

斎藤義龍
身長は六尺五寸(約197cm)といわれ、当時としても現代に於いても非常に大男であったとされている。
1561(永禄4)年5月11日、美濃の斎藤義龍急死。 持病を患っていて、その持病が原因で亡くなったといわれている(一説にはハンセン病とも)。先端巨大症による心不全かも?
21 無名さん
 
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橋本一巴(いっぱ) ? - 1558
砲術家。織田信長の火縄銃の師匠。
23 無名さん


丹羽長秀 1535 - 1585
父・丹羽修理亮長政は尾張守護・斯波氏の傘下であったが、斯波氏の衰退に伴い、弾正忠織田家(織田信秀)に属した。
兄・丹羽将監長忠が早世したため、次男の長秀が後継になったとされる。

1550年から織田信長に仕えた。信長の養女(信長の兄・織田信広の娘で姪)桂峯院を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶っている。さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受け、親しい主従関係であった。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣には一切無いところを見てもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていた。
24 無名さん
 


織田家
織田信長を頂点とする織田の一族のルーツは、越前国織田庄にある劔神社の神官を務めた忌部氏であるという。斯波氏によって越後の守護代に任じられ、後に尾張の守護代も務めた。

越前朝倉氏も越前国守護・斯波氏に仕えて、甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席で、後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになって自立し、越前国を支配する戦国大名になった。

林佐渡守秀貞 1513 - 1580?
長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞であり(『言継卿記』等)、松永久秀の家臣の林通勝と混同されたと考えられている。

1556年に柴田勝家や弟・林美作守通具(みちとも)らとともに織田信行(信勝)を擁立して挙兵するが稲生の戦いで敗北する。この合戦で弟・通具は討ち死にした。
信長自らが通具の首級を挙げたという。
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稲葉伊予守良通  法名・一鉄 1515 - 1589
斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の1人として活躍する。1556年、利政とその子・義龍の争いである長良川の戦いにおいては、義龍に味方した。
1563年に他の西美濃三人衆と共に龍興に諫言するものの聞き入れられず、それは翌年の安藤守就による稲葉山城占拠に繋がる。一度は和解となったものの、1567年に三人衆は信長へ内応し、同年の稲葉山城の戦いで龍興の美濃からの敗走を決定的にした。以後、信長に従う。

頑なに自分の意志を通す性格で、「頑固一徹」「一徹者」の語源になったといわれている。
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佐々成政
父・佐々成宗(盛政)三男。
通称、内蔵介。父の代から織田信長に仕え、長兄、政次は桶狭間の合戦で討ち死。次兄、孫介も稲生の戦いで討死。
永禄10年(1567)頃、直属の家臣団から、有能の19人を親衛隊の黒母衣衆、赤母衣衆に抜擢したが、成政はこの内の黒母衣衆10人の筆頭となった。

子孫には、『水戸黄門』の登場人物である助さん(佐々介三郎)や初代内閣安全保障室長の佐々淳行などがいる。

*母衣・・・ほろ 母衣は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具。


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蒲生琉球守氏郷 1556 - 1595 洗礼名・レオン

父は六角承禎の重臣・蒲生賢秀。
蒲生家は六角氏が観音寺城を攻め落とされた後も抵抗するが、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、永禄11年(1568年)賢秀は降伏した。蒲生賢秀は、嫡男鶴千代(氏郷)を人質として差し出し信長の家臣となり、柴田勝家の与力となる。

信長は氏郷の才能を高く評価し、次女の冬姫を嫁がせて娘婿に迎えている。
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細川兵部大輔藤孝 1534 - 1610 法号・幽斎玄旨
父・三淵晴員 養父・細川元常(三淵晴員の兄)

幕臣として将軍・義輝に仕えたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆に討たれ、義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)も興福寺に幽閉されると、兄・三淵藤英を始め一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと協力してこれを救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した。当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。

歌人としても優れており、関ヶ原の戦いでは500の兵しかいなかった丹後田辺城で、西軍1万5千の軍勢に囲まれ籠城を続けたが、幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇の勅により、難を逃れた。天皇自身が助命に動くことは異例な事である。
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真柄十郎左衛門直隆 1536 - 1570

朝倉家中でも武勇に優れ武将で、元亀元年(1570年)、姉川の戦いでは、越前の刀匠千代鶴国安の作による五尺三寸の「太郎太刀」を振り回して奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく、単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだ。だが、向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てた。


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織田信長公がかつて斉藤道三公の居城であった稲葉山城(岐阜城)のある金華山のふもとに妻である濃姫(帰蝶 斉藤道三の娘)のために金箔瓦の御殿を建てた裏付けとなる金箔瓦の破片や庭園跡が発掘調査でみつかったと2016年2月19日、岐阜市教育委員会が発表した。
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