1 東洋

<東洋文学論/言葉と文字の境界線>

 
文学に対する『オリジナル』とは、どのようにして生み出されゆくべきものなのであろうか?何を目指し、何処へ進むことこそが正解と成り得るのであろうか?

ハッキリ言おう。

そんなものに答えはない。

ある時は感情論で突っ走り、ある時は精神論によって理屈を唱え、自分の文字にリズムを加えていく感覚をマスターする事も必要であれば、文字とは無縁の世界から次なる展開のヒントを得ることだってある。

まさに、無限なのだ。

限界を作るな。終わりを感じるな。サイコロを振る必要もなく、フリダシ戻れのスタートラインに立つ権利は最初から誰もが持っているものなのだ。

今年で小3になるメイが、小2の頃、作文の授業で先生から『パパ』や『ママ』は『お父さん&お母さん』へ変更するよう、注意を受け、アタシは『アタシ』ではなく『私』だと教えられたとのことであったが、俺から言わせればそんなものはなんだって良いわけである。ポイントはそこではないわけであって、文字に対する善し悪しは内容である。そいつがどーなった、や、どう思ったかが重要なわけである。

踏まえて『ママ』の呼名など『マミー』でも『ババア』でも『アタイを産んだ奴』でも、成立するわけである。以上にそちらの方がシックリ来るといった文面のパターンも十分にあるため、くだらぬ表面的な呼名の制限によって、雰囲気、ムード、作文全体の世界観までもを制限してしまっていることはマイナスとしか写らないと思えたわけである。

楽しい家族旅行だけが作文ではない。こぼれみ溢れる6年間の思い出だけが卒業文集ではない。

文字と言葉に壁を作らず、誰もにテメーの言葉を文字に変換する権利を与えて貰いたいと思う今日この頃であった。

BY/東洋
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2 資本主義とは?
いい話じゃん。
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