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「、の自習室♭2」

あらゆることに神の摂理を求める部屋です。
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第三章遺ばれた民の歴史 (2)
(1) あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(2) あなたはし、かなる像も造つてはならない。上は天にあり、下は地にあ
り、また地の下の水の中にある、し、かなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれに向かつてひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならな
い。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む
者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わ
たしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
(3) あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を
唱える者を主は罰せずにはおかれない。
(4) 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあな
たの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、し、かな
る仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家
畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の聞に主
は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、
主は安息日を祝福して聖別されたのである。
(5) あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えら
れる土地に長く生きることができる。
(6) 殺しではならない。
(7) 姦淫しではならない。
(8) 盗んではならない。
(9) 隣人に関して偽証してはならない。
(10) 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろぼなど
隣人のものを一切欲しではならない。
(出エジプト記 20-2 "-' 17)
モーセは山から下って民にこれらの言葉を告げました。 このときふたたび雷
鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響き、山は煙に包まれました。「お
言葉の通りにいたします」と民たちは誓いましたが、彼らは神とじかに接する
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E 旧約聖書の世界
たあとでゼデキヤは両眼をえぐりとられ、青銅の足柳を鍛められて、パピロン
へ連れて行かれました。鉄のくびきとはこのことだったのです。
それからパピロニア軍はエルサレムに押し入りました。徹底的に町を破簸し、
若者たちを剣にかけ、おとめも白髪の老人も容赦 しませんでした。神殿の祭具
も宮殿の宝物もことごとく強奪され、神殿は破援されました。彼らは最後に火
を放って人家を焼き尽くしました。ダピデとソロモンが築いた壮麗な神の都エ
ルサレムは燃えさかる炎になめつくされ、みるかげもない廃壇と化して行きま
す。ゼデキヤ王の側近や主だった位の人々はリブラで処刑されました。
民のうち都に残っていたほかの者、投降した者、その他の民衆は捕虜として
パビロニアへ送られました。貧しい民の一部、病人や体に障害のある者だけが
ぶどう 畑のかたわ らに捨ててし、かれました。これが世に言う「パピロンの捕囚」
です。エレミヤが警告し続けた悲劇は現実のものとなったのでした。
どうして、ひとり坐っているのか
人に溢れていたこの都は。
やもめになってしまったのか
多くの民の女王だったこの都は。
奴隷となってしまったのか
国々の姫君だったこの都は。 (哀歌 1-1)
エルサレムを落暁の美女になぞらえた悲嘆にはじまるエレミヤの「哀歌」は、
荒廃した都の有様を如実に錨き出しています。嘆きの預言者は農夫や病人とと
もにユダに残りたいと願ったのですが、エジプ トに逃れた人々 が彼を必要とし、
彼の言葉を筆記する役目を負ったバルクとともにエジプトへ連れて行って生涯
を終えさせた、とされています。
彼はしかし嘆きだけを語ったわけではありませんでした。
r70年耐えよJとこの預言者は言ったのでした一一 r(主は言われる)この場
所に、このユダの町々とエルサレムの広場に、ふたたび声が聞こえるようにな
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第五章還ばれた民の歴史 (4)
る。喜び祝う者、花嫁花婿の声、感謝の俸げ物を主の神殿に携えて来る者が『万
軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く 、その慈しみはとこしえに』と歌う声が
聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回
復するからであるん
エレミヤの預言は、やがてベルシャがパピロニアを滅ぼし、捕囚のユダの民
にエルサレムへの帰還を許すことを告げていたのです。20世紀初頭中国の文人
魯 迅 (1881-1935)に「絶望が虚妄であるのはまさに希望がそうであるのに等
しいJとし、う言葉がありますが、絶望は全能の神への信仰とは相容れません。 こ
こに嘆きの人は希望の人に変貌し、彼の言葉はイザヤのようにはるか遠く、メ
シアの到来をも予告するものとなるのでした。
エゼキエル
パピロニアはかつてのエジプトのように捕囚の民を奴隷にはしませんでした。
ユダから来た人々はこの地である程度の自由を享受することができました。た
しかに都会でも農村でも彼らは労役に駆りだされました。土木工事、塗装、畑
仕事……でも家を建てて住むことはできたし、庭も作れたし、集まって祈った
り『聖書』を読んだりすることはできました。 しだいに富を蓄えたものもいま
した。放浪を宿命とするこの民族は、自己のアイデンティティーを守りつつ異
文化に適応する術を早くも身につけはじめていたのです。 しかしながら望郷の
思いが常に彼らの心を去らなかったことも事実でした。
パピロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた
竪琴をほとりの柳の木々にたてかけて。
わたしたちを捕囚にした民が
歌を歌えと言うから
わたしたちを噸る民が、たわむれに
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E 旧約聖書の世界
「歌ってきかせよ、シオンの歌をJと言うから。
どうして歌うことができょう
主のための歌を、異教の地で。
エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手は萎えるがよい。
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
わたしの舌は上顎にはりつくがよい。
(詩篇 137- 1"""' 6)
恐ろしい疑問が彼らの心を揺さぶっていました。約束の地が異教徒に渡った
とすると、神はもうその祝福の手をひっこめてしまったのだろうか。神殿がな
くなってしまったとすると、神は民を見捨てたのだろうか。ダビデの王朝が崩
れ去ったとすると、神はその契約を反古にしたのだろうか。
もっと根源的な疑問がありました。ユダ王国がパビロニアによって打ち負か
されたということは、パビロニアの神の方が契約の神よりも強いということな
のか・・・・・・。
疑問は次々と捕囚の民を苦しめました。ここにふたたび勇気と信仰を彼らに
与える預言者がいなかったら、彼らもかつての北イスラエルの民と閉じように
どこへともなくその存在を消し去っていたことでしょう。これをふせぎ流刑中
の共同体を励まして神への希望の火を点し続けたのがエゼキエルです。
この預言者は BC597年最初の捕囚が行われたとき、ヨアキムとともにパビロ
ニアに送られていました。あとから来た仲間を迎えて彼が言ったことは、主な
る神は決してその最愛の民を見捨てはしない、ということでした。主もまた彼
らといっしょにパピロニアへの道をたどり、流請の運命をともにしているのだ、
と彼は言いました。それを説明するのに、幻を使ったことがこの預言者の面白
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第五章 i墾ばれた民の歴史 (4)
んでした。イザヤを疎んじ始めた王に預言者は失望しましたが、もうその頃の
イザヤは、神に聞かれた視野を持ってもっと遠い未来を見つめていました。そ
の彼方に、これまでの誰よりもすぐれた王のなかの王、世を救い、平和をもた
らすメシアが到来するであろうことを予見していました。先の「おとめが身ご
もって男の子を産むJというのも、つぎの有名な「エッサイの株からJもこの
メシアに関わるものです。 このあたりから預言者にはまた新たな役割が付け加
わります。来るべきメシアへの希望を人々の心に植え付けることです。
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若校が育ち
その上に主の霊がとどまるであろう 。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れうやまう霊。
主を畏れうやまう霊にその人は満たされるであろう
目に見えるところによって裁かず
耳にするところによって弁護を行わず
弱し、者のために正しい裁きを
貧しい者のために公平な弁護をするであろう。
口の鞭で地を打ち
唇の息でよこしまな者を死にいたらしめるであろ う。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びるであろう 。 (イザヤ 11-1 ---5)
エッサイとはダピデの出た家のことです。 「エッサイの根から若枝が出るJと
は、メシアがダビデの血を引く者のなかから出る、という力強い預言だったの
です。
これより少し前のことになりますが、ミカという預言者も同じようなことを
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第一章新約聖書とはつ
-旧約と新約
さあ、いよいよ「新約聖書の世界Jにやって来ました。
まず、「新約Jという言葉の意味からご説明しましょう。
r 日約聖書 が単なる『聖書~ (書物・諸文書)であったことは前にお話しま
したね。これを「古い契約の書Jという意味で rI日約聖書」と名づけたのはキ
リスト教です。「古し、Jというからには「新しい契約」が存在するからで、イエ
ス・キリストによって神と人間との聞に結び直された「新たな契約」がこれに
ほかなりません。これを解き明かす諸文書を『聖書』のなかに取り入れ、位置
づけるために、初期のキリスト教会がおこなったのが、この rI日約Jr新約Jの
命名作業であったのです。
「新約聖書Jはギリシア語で書かれました。もともとは当時のへブライ社会で
話されていたアラム語だったものもありますが、その場合はそのギリシア語訳
が、やはりギリシア語の W70人訳聖書』と併せてキリスト教の聖典とされまし
た。 「新約聖書」が成立するのはローマ帝国時代ですが、このときローマ世界の
公用語はギリシア語だったからです。西暦 1世紀のうちにもうこの確定作業は
行われたのですが、このとき『聖書 taBiblia ~のなかで I日約・新約Jふた
つの分野を表すために使われた diath~語という言葉には「約束 に併せて「遺
言Jに近い意味が含まれていました。「契約Jを精神的遺産として世々に伝える
のに相応しい言葉だったといえるでしょう 。そのラテン語訳であるTestamen-
tumに由来する近代語(r遺言Jの意味が優先している "Testament")が「古
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第一章新約聖司Fとは?
• r新約聖書」の内容
では、その「新約聖書Jにはどんな内容が含まれているのでしょうか。 これ
は「旧約j よりずっと簡単で目次に従って次のように分類できます。
1 福音書(マタイによる、マルコによる、ルカによる、ヨハネによる)
2 使徒言行録
3 手紙(ローマの信徒へ、コリントの信徒へ、ガラテアの信徒へ、エフェソ
の信徒へ、フィリピの信徒へ、コロサイの信徒へ、テサロニケの信徒へ、
テモテへ、テトスへ、フィレモンへ、へプライ人へ、ヤコブの、ベトロ
の、ヨハネの、ユダの)
4 黙示録
1 福音書
マタイからヨハネに至るこれら4つの蓄は、イエスの生涯を弟子の口から語っ
たものです。 「福音Jとは平たく言えば「良い知らせJということで、イエス・
キリストによってこの世に決定的な「救し、Jがもたらされた、というのがその
知らせの中身です。マタイ、マルコ、ヨハネはイエス生前からの弟子で、つぶ
さにその言行を見聞きした者。ルカはイエスの死後弟子となった者ですが、お
びただしい史料を精査した上で著述に臨んでいます。 したがって四福音奮の内
容は同じで、相互に矛盾は存在しません。 しかし、ひとりひとりの個性、およ
びだれを対象として書かれたかによって、語り方や取り上げる事柄に微妙な差
はあり、それが福音書に生彩を添えるものとなっています。
4つの福音書の冒頭の 1節を例にあげてお話しましょう 。
まずマタイー一一「アプラハムの子ダピデの子、イエス・キリストの系図。
アプラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコプを、ヤコブはユダとその兄
弟たちを、ユダはタマルによってベレツとゼラを、ベレツはへツロンを、 A
ツロンはアラムを、アラムはアミナダプを、アミナダブはナフ シ ョンを、ナ
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皿 新約聖書の世界
垣間見られたように、次の要素から成っていたと見ることができます。
1 説教 2 奇蹟(超自然的行為 3 神性の顕示
これらはひとつひとつ離れて存在したものではなく、イエスの言動のなかに
密接に結びあっていたものではありますが、そのすべてを紹介するのはとても
大変なことなので、これら 3つの要素のそれぞれが顕著にあらわれているエピ
ソードを幾つか選んで紹介することにしたいと思います。
1 説 教
@ 山上の垂自1
山に昇って12使徒の選出を行ったイエスは、彼らとともに少し下り、平らな
ところに足を止め、集まった群衆を前に、主として弟子たちに向かつて最初の、
そして最もよく知られた説教をしました。「山上の垂訓Jと言われるものです。
この最初の説教には、イエスの思想がほぼ全面的に展開されていますので、な
るべく多くの部分を引用によってご紹介したいと思います。
幸せな人
「貧しい人は幸せだ。天国はその人たちのものだから。
悲しむ人は幸せだ。その人たちは慰められるから。
柔和な人は幸せだ。地を受け継ぐのはそういう人たちだから。
義に飢え渇く人は幸せだ。渇きは満たされるから。
憐れみ深い人は幸せだ。その人たちも憐れみを受けるから。
心の清い人は幸せだ。その人たちは神を見るから。
平和を実現する人は幸せだ。そういう人は“神の子"と呼ばれるから。
義のために迫害される人は幸せだ。天の国はその人たちのものだから。 J
地の温、世の光
「あなたたちは地の塩である。塩がその味を失ったら何でその塩に塩味がつけ
られよう。あなた方は世の光である。光を点したら緋の下に入れないで燭台
の上に置くだろう。あなた方の光を人々のまえに輝かせなさい。それを見て
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第二章 イエス・キリストの生涯(1)
人々が天の父をあがめるように。J
律法について
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはいけない。廃
止ではなく完成するためにわたしは来たのだ。天地が消えうせるまで、律法
に説かれたことは一点ー画もゆるがせにされず、ことごとく成就されるに違
いない。だから、よいか、あなた方の義は律法学者やファリサイ派の人たち
よりもまさっていなくてはならない。そうでなければ天の国にははいること
はできないのだ。 J
心の中の罪
「“姦淫するな"と命じられていることはあなた方も知っている。しかし、わ
たしは言う、色情を持って他人の妻を見る者は、すでに心のなかで女を犯し
たのだと。右の目があなたをつまずかせるなら、挟り出して捨ててしまえ。右
の手があなたをつまずかせるなら切りおとせ。体の一部がなくなっても、全
身がゲへンナ(エルサレム南方のゴミ焼き場・地獄の象徴)に投げ込まれる
よりましではないか。」
誓うな
「あなた方も聞いている通り、昔の人は“偽りの誓いを立てではならない、神
に誓ったことは必ず果たせ"と命じられた。しかし、わたしははっきり言お
う。一切誓いを立てではならない。天にかけて誓うな、そこは神の玉座であ
る。地にかけて誓うな、そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓うな、
そこは王の都である。そうであるか、ないか、だけ言えばよい。それ以上の
ことは悪魔から出る。」
復讐するな
「知つての通り“ 自には目を、歯には歯を"と命じられている。しかし、わた
しは言おう。悪人に手向かつてはならない。人が右の頬を打つなら、左の頬
も向けるがよい。誰かがあなたを訴えて上着を盗ろうとしたら、マントもやっ
てしまうがよい。物を乞われたら与えよ。借りたいという人には背を向ける
な。」
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