歪のニライカナイ
過去ログ3909
2025/8/1 11:36
▼無名さん他人が勝手に奪っていい命などひとつもないということを伝えます。あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。ご両親から教えてもらえなかったのですか。周りの誰からも教えてもらえなかったのですか。何て、かわいそうな人なんでしょう。何て、不幸な環境にいたのでしょう。本当にかわいそうな人。私は娘がいて、とても幸せでした。決して不幸ではなかったです。「不幸を作る」とか勝手に言わないでほしいです。私の娘はたまたま障害を持って生まれてきただけです。何も悪くありません。
▼無名さん事件後、家はめちゃくちゃになりました。社交的で老人会や自治会の活動に積極的に参加していた祖母が家に引きこもってしまい、一歩も外に出なくなりました。人と話をするのが好きだったのに誰とも話さなくなりました。料理や庭の手入れをするのが好きでしたが全くしなくなりました。笑顔が消え、表情がなくなりました。兄は具合が悪くなり、休み休み仕事をしていましたが入院することになり仕事を辞めました。私は食事をしても味がわからなくなり、9キロやせました。心療内科に通い薬を飲むようになりました。体が痛くて寝る時に骨が当たって痛くて眠れませんでした。1人で外出するのが怖くなり、外に出られなくなりました。がんばって外に出ると心臓の動悸がすごく、ドキドキしてブルブル全身が震えてしまうことがよくありました。今でもこの発作で震えてしまうことがあります。私の人生はこれで終わりだと思いました。自分の命より大切な人を失ったのだから。美帆がいなくなったショックで私たち家族は、それまで当たり前にしていたことが何一つできなくなりました。私たち家族、美帆を愛してくれた周りの人たちは皆、あなたに殺されたのです。未来を全て奪われたのです。美帆を返して下さい。
▼無名さんプリント等配っていましたが、何を手にしているのだろう、皆、何を言っているのだろうと不思議でした。私は頭痛がひどくて「診療所の先生が園に来ているから具合の悪い人は言って下さい」と園長先生に言われて診てもらったら「血圧がすごく高いので頭痛は治らないけど点滴するので診療所に来られるようなら来て下さい」と言われ警察の車に乗せて頂き点滴を受けました。警察と園と遺族の話で、名前を出すか出さないかでとても揉めていたのを覚えています。私は言葉がでなくて一言も発することが出来ませんでした。
葬儀は、地元の斎場で音楽葬でしました。マスコミが多く来ていたようですが、弁護士会から来て頂いている弁護士や警察が協力して入れないようにしてもらえました。美帆の好きな童謡や「いきものがかり」などの音楽を流し、参列者には娘の顔も見てもらいました。美帆のアルバムや額に入った写真を見てもらいました。着物を着せて見送りました。のべ200人位の人が見送ってくれました。
▼無名さん(事件)当日は7時30分頃「美帆が被害にあっている」との連絡をもらい9時から10時の間ごろ、やまゆり園に着きました。名簿の×を見たときから、もう何がなんだかわからなくなり、頭も真っ白でした。何回も夢じゃないかと思い、ほっぺたをつねってみたのですが、夢か現実か、自分が誰なのか、どうしてここにいるのかも、わからなくなっていました。
だいぶ時間が経ってから美帆に会えました。顔しか見せてもらえませんでした。ストレッチャーに乗せられていて「美帆ちゃん、美帆ちゃん」と何度呼んでも答えてくれなくて、自分で体温調節するのが苦手で、汗をあまりかかない子だったので、いつも温かい子が、その時はすごく冷たくて、冷たくて、そんなことは一度もなかったのにすごく冷たくて一生忘れることのできない冷たさでした。会ったのは数分だと思います。
▼無名さん(法廷で被告に)「お母さんのことを思うといたたまれません」と言われて、むかつきました。考えも変えず、1ミリも謝罪された気がしません。痛みのない方法で殺せばよかったということなんでしょうか。冗談じゃないです。ふざけないでください。美帆にはもう、どんな方法でも会えないんです。