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1 けん

あの夏の頼み事

「ねぇ、叩くんだったらお尻にしてよ?」

まだ六歳の僕は母親にそう言ったらしい。
いや、確かに言ったのだろう。
きょとんとこちらを見た彼女の顔を、こうして今でも憶えているのだから。
どうしてお尻がいいの?と聞いてくる彼女に何と言ったかも、ふるえた声さえ耳に響いてくるようだった。

「頭叩かれたら、バカになるって」
[作者名]
けん
(PC)
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当時、僕の夢は"えらいひとになること"だった…らしい。
正直全く覚えがないのだが、卒園記念に書いた二つ折りの色紙にひらがなでそう書いてあった。
母親はあまり子供(つまり僕)に手をあげる人ではなかったはずだが、状況次第ではやむを得ないとも考えていたらしい。
腕白盛りの僕が危険な場所へ走って行ったりするので、必死に捕まえると条件反射的に頭をぺしっとやることがあった。
僕はそれをやめて欲しいと懇願したのだ。
かわりにお尻を叩いてもいいという条件付きで。

僕の最大の過ちは、その時に期間を限定しなかったということだろう。
(PC)
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「遅かったわね」

背負ったランドセルを居間でおろし、洗面所で手を洗う。
扉の向こうから聞こえてきた声は母親のものだった。

「さっさと準備しないと、間に合わないわよ?」

「えっ、うそ、もう?」

塾があるからと友達との話もそこそこに帰ってきたはずなのに。
ぱたぱたと手の甲にタオルを押し付け、急ぎ足で居間の掛け時計へ走る。
古びた木製のアナログ時計は午後四時三十分を少し過ぎたところのようだ。

「なんだ、まだ四時半じゃん…」

塾は六時からなので、まだ随分と余裕はある。
車で母親に送ってもらう予定だが、どれだけ早めに向かうとしても家を出るのは五時半くらいだろう。
しかし母親はそれを理解した上で、

「だから、早く準備しなさいって言ってるでしょう」

とくり返し言うのだった。
(PC)
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気付くと、母親が居間に置かれたランドセルの横で仁王立ちしていた。
もちろん僕が背負っていたものだ。

「どうしたの?塾へ行く準備をしてみなさいよ」

(ま、まさか…)

僕はここで初めて、母親の不自然な言い回しに気付いた。
彼女は怒っているのだ。
でも、何に?
それは僕にとっては聞くまでもないことだった。

「塾のテキスト、学校まで持って行ったでしょう」
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「えっと、それは…」

「昨日、宿題はもう終わってるって言ってたのにね?」

「…」

すっかり忘れていた。
うちでは遊ぶ前にやるべきことを済ませるのがルールなので、母親はとくに宿題に関して口煩い。
「終わったの?」に対して「終わったよ」と答えればそれ以上追及されることはないが、塾の宿題は話が別だ。
たまに抜き打ちでチェックが入るのだが、その時に、手を付けてさえいないことが発覚してしまうこともある。
それが今日というわけだ。
学校へ持って行ったのだし、日頃から勉強熱心な子供であれば「学校で復習しようと思った」などと言い訳もできる。
もちろん僕がそんな子供でないことは、目の前の母親もたぶんよく知っていた。

「行く前に、お仕置きね」

母親はシャッとレースの白いカーテンを閉めると、すぐ前の床に正座して僕に手招きをした。
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閉め切られた居間のはじで、僕は母親の膝へ横たわるようにお尻を天井に向けていた。
彼女の後姿からはみ出た両脚は床に膝が付いてしまっている。
その体は、このような折檻を受けるには少し大きくなりすぎていた。

「まったく、これで何度目かしらね…」

それもそのはず、今の僕はもう十二歳なのだ。
母親にあんな頼みごとをした六歳の僕ならいざ知らず、小学六年生になった僕の体を隠しきれるほど彼女の体は大きくない。
それでも当時のままこうして、全く同じお仕置きが行われているわけは。

「叩きますよ」

親指以外は隙間なく、四本の指をスラリと揃えた母親は、その指の腹でピシリ、ピシリと僕のお尻を叩き始めた。
はっきり言って痛みはない。
彼女が手加減しているからだ。
手のひらでなく指の腹で叩くのは、まだ小さかった僕がケガをしないようにと聞いたことがある。
彼女は六歳の僕のお尻を叩いていたのと全く同じようにして、今は十二歳のお尻を叩いているのだ。
しかし、だからと言って全く辛くないということもない。
ピシリ、ピシリと母親の手をお尻に感じるたび、少しずつではあるが熱をもってヒリヒリ腫れてくる。
痛がゆい、とでも言えばいいのだろうか。
痛みが遅い分、もっとも長時間耐える羽目になるのが言葉にならないようなむずがゆさだった。
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7 けん
「ほら動かないの…、帰ってからもする?」

そんな子供じみたお仕置きを、母親は徹底して行っている。
先ほどの口振りからして小一時間は叩くつもりなのだろう。
手加減されているとはいえ、そんなに叩かれればもちろん痛いしかなり赤くもなるはずだ。
さらにここで「動かない」という約束を守れないと、たぶん帰ってきてからお仕置きが再開される。
そこは僕の経験から確実と言えた。
僕がどうにか堪えたのを見ると、母親はまた揃えた四本指を軽く振り上げ、ピシリと打った。

「そうそう、いい子ね…」

穏やかな口調からは折檻する母親など想像もできないが、彼女は確かに僕のお尻を叩き続けている。
同じように、指の腹で。
ピシリ、ピシリと打つたびにほんの少しずつ赤みがかってゆくのは、そばで見ている者にしかわからなかったかもしれない。
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(くそー、今日も聞けそうにないかな…)

僕はヒリヒリ痛むお尻をシートに預けたまま、母親が運転する軽自動車に揺られていた。
こんなお仕置きがいつまで続くのだろう。
以前、彼女に何度かその疑問をぶつけてみたものの…いつも帰ってくる答えは同じだった。

「あら…、そういう時、お尻叩いて欲しいって言ったのはだぁれ?」

叩いて欲しいとは言ってない、と何度反論しても、この母親を納得させられる自信はない。
ならば知りたいのは、僕がいくつになるまで続けるのかということだけだった。
高学年に上がったらという僅かな期待は、数年ほど前すでにへし折られている。
中学生になったらさすがに、と思わないでもないが…あくまで僕の意見であって、母親の意思ではない。

(よし、塾から帰ったら…)

お尻に感じる熱を忘れるためか、普段より深く考え事をしていると。
僕は、学校でやり終えたはずの宿題テキストをランドセルから出し忘れていることに今さらながら気付くのだった。
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