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お古の彫刻刀

久々に実家へ帰ると、僕の部屋はすっかり様変わりしていた。
僕の部屋だった場所、と言い表したほうがしっくりくるほどに片付いた室内。
見渡すほどに寂しささえ感じてしまう。

「うわ、これ…」

窓際にぽつんと置かれたベッド。
そこから手を伸ばせば届く距離にある桐のクローゼットの側面に、何やら文字が彫ってある。
芸術性の欠片もない荒い削り口だ。
我ながらとんでもなく目立つ場所に悪戯書きをしたものである。

「懐かしいでしょう?それ」

いつの間に入ってきたのか、気づくと母さんが後ろにきて笑っていた。
扉を開けっぱなしにしていた僕も僕だが、ノックどころか物音さえ立ててくれないのは心臓に悪い。

「あの頃まだピカピカで綺麗だったのよ?ほんとにもう…」

「そうだっけ?あんまり覚えてないや」

「・・・まぁこんな物、子供部屋に置いてる時点で私も悪いか」

昔話もそこそこに、ご飯の支度しなきゃ…、と言い残して母さんは部屋を出ていった。
僕はほっと安堵する。
よく覚えていないというのは嘘だ。
はっきり覚えているからこそ、当時の事を話したくない心情というものがある。
クローゼットに彫られた傷にそっと触れてみると、すぐにまたさっきの扉から母さんが入ってくるような気がしていた。
[作者名]
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「参観日ぃ?…ごめん、ちょっと無理かな…」

両親は昔から共働きだった。
小学生の間は入学当初から、重要な懇談以外は全て欠席。
僕のためにそうしてくれているのだと子供ながらに理解しているつもりだったが、やはり寂しさは残ってしまう。
時折こうした頼み事をして母さんを困らせるのは、僕の楽しみでもあったように思う。

「そのかわり、今度休みがあったらおでかけしよ、ねっ?」

それが気休めだとわかった上で、「うん」と返事をした。
平日学校へ通う僕と休日が被る事など年に数回ほどしかなく、そう都合よく近日中に休みが取れるとは思えない。
授業参観に来てほしいなど何か月も前から日付がわからない限り無理な話だった。
親がこないなんて羨ましい、というのは恵まれた子の意見である。

「そうだ、家に彫刻刀あった?図工で使うやつ」

「ええ、食卓の所に置いてあるわよ、お古で悪いわね」

「別にいいよ」

前日に話していた古い彫刻刀を、母さんは押入れの奥から見つけてくれていた。
本当は新品が欲しかったのだが、苦労を考えると贅沢は言えない。
この思いやりがどんな時でも発揮できていたら、あんな悪戯をしようとは思わなかったかもしれないが。
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「この時間何をするつもりで来たの、あなた達はっ!」

翌日。
彫刻刀を持ってくるのを忘れた3人が黒板前に呼ばれ、図工の先生からお尻をぱんぱんと叩かれている。
2時間授業のため、忘れ物の罪はかなり重い。
もし母さんが用意してくれなかったら、自分もあそこに混ざっていたかもしれないと思うと複雑な気分だった。

「痛そうだね…」

隣の席の女子が、顔を伏せたまま話しかけてきた。
作品に集中しているように見せないとこっちまで怒られてしまうと思ったのだろう。
それなら私語をしなければいいのに。
さすがに無視はできず、「うん」と小声で返した。

「あれ、された事ある?」

「え、図工の時間?」

「うん、私も前に1回されちゃった」

ちょー痛いよ、と嫌そうに話すその女子は、以前絵の具セットを忘れてきたそうだ。
黒板の方を遠目に見ているだけでも痛そうに見えるのだが、隣で言われるとつい意識してしまう。

「はい、それじゃ隣に借してもらって作りなさい」

3人が許された時、授業の開始から30分近くが経過していた。
お尻をさすりながら席に戻る姿がなぜか羨ましく見えてしまったのも、この時である。

「どうしたの?」

問いかけには答えなかった。
これ以上の私語は危険だよ、と視線で伝え、ただ自分の作品を作る事に没頭した。
もしかしたら近い将来、この彫刻刀を捨てられてしまうかもしれない。
そこまで覚悟した上でも、あの悪戯の衝動が抑えられなかったのである。
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「あら、お帰り」

「ただいま」

帰るなり、僕は計画を実行に移した。
作業は図工の作品よりよほど簡単なので、最初の一彫りに勇気がいる以外はあっさりしたものだった。
母さんに気づいてもらわなくては意味がないので、木くずをティッシュにのせ、食卓に放置した。
ばたばたと血相を変えて僕の部屋を見に行ったのは、それから20分ほどが経ってからだろう。

「何て悪戯をしたの、あなたは!!」

母さんが怒鳴り声をあげる姿など久しく見ていない。
一瞬たじろいだが、同時にため込んでいる不満をぶつけてやろうとも思っていた。
しかしまだ子供である僕が、外でバリバリ働く母さんに力で敵うはずがない。

「来なさい!」

体が浮いたかと思えば、すでに僕の部屋である。
たった今、傷をつけたばかりのクローゼットの前まで連行され、叱責を浴びる。

「こんな事に使うための物じゃないでしょう!?」

僕は黙っていた。
不満を口にするタイミングを逃したのもあるが、母さんの迫力に気圧されたのだ。
普段家にいない分、どちらかというと母さんは僕の悪戯に寛容で、ここまで怒らせてしまった記憶はない。

「ほら、まずごめんなさいでしょ!?」

僕は頑として謝らなかった。
それどころか、反省してませんと挑発するようにひと言こう口にしたのである。

「だったら、お尻でも叩いてみたら…?」
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母さんは僕の態度に激昂した。
明らかに顔を紅潮させた自身を平静に戻そうとする姿など、あとにも先にもこの時見たきりである。

「あまり手はあげたくないんだけどね」

ベッドの上を片づけ始めた母さんは、静かな怒りを必死になって抑えているように見えた。
先ほどまでと違い、大声は出さないでいる。
しかしこうなると逆に怖い。

「物には限度ってものがあります」

掛け布団を畳んで足元に追いやり、次に枕元を指さした。
ここへ寝ろという意味だろうか?
そのまま行こうとして、母さんに止められた。

「お尻叩かれたいんでしょう?下は脱ぎなさい」

「別に叩かれたいとは…」

「叩かれたくないなら二度とこんな事しないで、今日はもう駄目」

しぶしぶズボンを下げ、母さんの前に立つ。
まさか下着さえ許されないとは思ってもいなかった。

「膝をついて伏せる…、そう」

僕は四つんばいの情けない格好で、母さんにお尻を向ける。
学校で見たお尻叩きより遥かに恥ずかしい気がした。
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「この際だわ、あなたが今までしてきて黙ってた悪い事を全部言いなさい」

「ええ!?何でそんな…」

「正直に、全部言えたら許してあげる」

そう言って、母さんはお尻の左側をパァン!!と叩いてきた。

「これは今回の分ね、今のうちに考えときなさいよ?」

パチィン、パァン、ピシャンと何度も平手打ちを加えながら、母さんは僕に色んな質問をした。
幼稚園の時の悪戯に心当たりはないか、1年生、または2年生では?
同じ質問を何度も繰り返し、少しでも答えが違うとまたお尻をピシャピシャとぶたれる。
途中からは自己申告で懺悔の時間となり、悪事を1つ述べるごとに追加で何発もお尻を叩かれてしまうのだった。

「…嫌いな給食を残して、トイレのごみ箱に捨てた」

「いけない子ね…、他には?」

僕のまっ赤になったお尻をなおもパンパンと叩き続ける母さんの右手。
こんなにも叱られたのは初めての事だった。

「熱があるって嘘ついて、体育のマラソンをサボった」

「まぁ!今度先生にも言っとかなくちゃ…、他には?」

絞りだすように答え続けたものの、いくつかは話を盛っていたかもしれない。
それほどに、母さんにお尻を叩かれるこの時間は、痛くて、熱くて、何より幸せだった。
痛みに快感をおぼえた訳ではない。
ただ放っておかれるよりは、こうして叱られてでも一緒にいられる方がずっと嬉しかったのだ。
母さんもそんな僕の意思が伝わっていたのかもしれない。

「もうないって言うまで続けるわよ、他には?」

「他、他には…」

全部で300か、それ以上はぶたれたように思う。
すっかり腫れてしまったお尻を放り出したまま、叩き終えて部屋を出ていった母さんの温もりがじんじんとお尻に熱く残っていた。
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「しばらくはゆっくりできるの?」

「うん、今週いっぱいまでは」

あれからかなりの時が経った。
母さんはもう忘れてしまったかもしれないが、僕の中では一生の思い出だ。
誰よりも深い愛情を感じたのがあの時だったのだから。

「ねぇ、母さん」

「ん?」

「…いや、何でもない」

「変な子ね」

何か話そうと焦るあまり、妙な間があいてしまった。
口をついて出たのは、あの傷の話。

「あれってさ、直せないの?」

「古いし、どうかしら?私はあのままでいいと思ってるけど」

「はは、僕の子供とかが真似して悪戯するかもね」

それを聞いた母さんは、嬉しそうに。

「その時は、またお尻を叩いてあげるわよ」

と言ったのだった。
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