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1 りんご

代償

かなり長文です
[作者名]
りんご
(SP)
2 りんご
 気になるひとができた。
 その夜。ぼくは彼女とバーにいた。
 カウンターテーブルにはお皿に焼き鳥が何本かと、飲みかけのビールの入ったジョッキが二杯、置いてある。
 ……三十歳。妻子持ちの男。
 そこでぼくはわれに返った。まるで無数のとげに刺されるみたいに、胸がちくちくと痛んだ。どうせ、叶わぬ恋情だ。ぼくはむだな考えを振りはらった。
「でも、めずらしいね。永野くんが誘ってくれるなんて」
 彼女が口をひらいた。焼き鳥を頬ばって、いたずらっぽく笑って……どこか探りいれるような目でぼくを見る。
「わたし、すごくびっくりしたよ。永野くんって、自分から誘うなんてこと、めったにしないタイプじゃない。受け身っていうかね。それがね、いったいぜんたい、どういう心境の変化なのかなー、って」
「変化なんてないですよ。いたってふつうです。ただ一度、仕事仲間として、長谷さんと飲みたいなって、思って」
 ふぅん……と、彼女は納得しかねるような微妙な表情になった。
 ぼくはジョッキに手をのばして、ひとくち、飲んだ。
 ……よく冷えている。泡が口の中にまろやかに溶けて、ほんのりと苦い。夏の暑いこの時期に、ぴったりな冷涼感だ。
「永野くんも、ずいぶんと成長しちゃって。五年目だっけ? うちの会社に来て。最初のころなんてもうね、ペーペーだったのにね。うぶでかわいかったなぁ……いまはあのときのうぶさが抜けたよね。すっかりベテランって感じで」
 すでに酔っているようで、彼女はろれつがあやしかった。頬が紅潮している。目がとろんとすわっているのを見て、こりゃ相当きてるな……と思った。
「だいじょうぶですか? ふらふらじゃないですか」
「だいじょーぶだってのにっ。なんの。これくらい……なん、の……」
 ……ふいに声が弱々しくなった。まるできれかけた電池みたいに、声のトーンが不安定にふらついて揺れた。やがて尻すぼまりになって、完全に聞こえなくなった。
 かわりに聞こえてきたのは寝息だった。彼女はテーブルにつっぷして眠ってしまったようだ。
(SP)
3 りんご
 酔った彼女をホテルに連れこんだ。
 きょうのぼくはどうかしている。お酒のまわったぽわぽわした体が、理性を遠く鈍らせていく。
 彼女に肩をかして、フロントで指定された部屋に入る。
「長谷さん、しっかりしてくださいよ」
 話しかけても、返ってくるのはうめき声だけだった。
 ダメだなこりゃ……小さくため息をついて、彼女をシングルのツインベッドに寝かせてやった。
 ……きれいな横顔をしている。
 彼女は会社の先輩だった。独身女性で仕事がよくできて、上司からも部下からも、一目おかれている存在のひとだ。
 ぼくもそのうちのひとりだ。彼女にたいして憧れを抱いており、尊敬していた。いや……もはやそれを超越した気持ちを。
「……長谷さん」
 そっと声をかけてみる。
 彼女は起きなかった。
「……長谷さんっ」
 こんどは比較的、大きめの声で。 
 結果は同じだった。
 ぼくは上下に着ている物を脱ぎ捨てた。パンツ一丁の姿になって、ゆっくりと、彼女の上に覆いかぶさる。 
 猛烈に下腹部が熱くふくらむ。棒のようにかたく反り返し、窮屈な痛みを感じるほどに。全身がむらむらと、たぎるような性欲をかきたてる。
 やめろ……心の声が聞こえる。
 ぼくがしようとしていることは、不当かつ最低な行為だ。これ以上はだめだ。取り返しのつかないことになると、頭の中ではわかっていた。
 でも、止まらなかった。
 ブレーキはかからず、むしろアクセルを徐々に踏みこんで加速するみたいに、鼓動が速くなる。
 ぼくは戻れるだろうか。それとも、もう引き返すのも困難なほど、遠くまできてしまったのだろうか。
 自問自答しても答えはわからなかった。
(SP)
4 りんご
 ひどい朝だった。
 二日酔いで頭が痛い。がんがんする。ジョッキ一杯程度で、おれも弱いもんだな……と思う。幸い、今日は休みだからよかったものの。         
 ぼくはまず、眠けざましに顔を洗った。ついでに持参の歯ブラシで歯をみがく。
 彼女はまだ、眠っている。
「……よく寝るひとだな」
 ぼんやりとつぶやきがもれた。
 直後。彼女の体が動いて、ゆっくりとこちらを向いた。
 ぼくは心臓が飛びだすかと思った。どうやら彼女は、寝返りをうっただけらしかった。
 メールが二件、スマホにきていた。
 ひとつは妻からだ。
『どこにいるの?』と一文だけ、書いてあった。
『飲んで酔っちゃってさ、ホテルに泊まったんだ。連絡もしないでごめんな。いま帰るから』
 そう返して、つぎのメールをひらいた。
 こっちは妻の兄……義兄さんからだった。
『いまさっき、優一くんが知らない女性といるのを見かけたよ。ふたりで駅前のホテルに入ったよね? あの女性はだれだい? 会ってくわしい話が聞きたいから、あとで返信ちょうだい』
 ……しまった。あのとき、義兄さんに見られていたとは。
 ぼくは頭をかきながらメールを返した。
『いつごろが都合いいですか?』
 少しして返信がきた。
『日曜はどうかな?』
『だいじょうぶです。場所と時間は、どうしますか?』
『私の家まで来てもらえるかな? その週、妻と娘が帰省の予定で、私はひとりで留守番だから。時間は、優一くんが来やすいときでいいよ』 
 ──そのとき。
「永野くん?」
「ひっ」
 ぼくは短く叫んで振り返った。
 彼女はボサボサの髪をかき上げて、ベッドの上に体を起こしていた。
「おっ……起きたんですか、長谷さん。驚かせないでください」
「こ……ここは? わたし、えっと……」
「酔ってたんですよ。ひどい酔いようだったから、ぼくが長谷さんを、ここ……駅前のホテルなんですけど、ここまで連れてきたんです。場所的に近いし、ちょうどいいかなって、思って」
 彼女は不審げにぼくを見る。ゆうべからの記憶を、どうにかたぐろうとしているみたいだ。
「じゃあ、失礼します。ぼく、ちょっと急用ができたんで」
 そう言いのこして、部屋を出た。
 ドアにもたれかかり、大きく深呼吸する。
 なに動揺してんだ、おれは。落ち着け。
 うちそびれた義兄さんへのメール。『了解です』とだけ返して、それでやりとりを終えた。
(SP)
5 りんご
「酔って寝ちゃったんですよ、彼女。もう、でろんでろんで。起こしても、ぜんぜん起きなくて。だからぼくがホテルに連れてきたんてす。そのままおいて帰るわけにも、いかないし」
 日曜の昼さがり。ぼくはそう説明した。
 義兄さんはいかつい顔つきしていた。体つきも大きくてたくましかった。学生時代にキックボクシング部に所属していたと、妻から聞いたことがある。
「優一くんの言ってることは、よくわかったよ。でも、なんかへんだね……優一くん、やけにそわそわしてないかい? いやね、気のせいならいいんだが。私には、なにか隠してるように見えてね」
「かっ、隠してることなんて……ぼく、そん、な、ないですよっ」
 図星をつかれて動揺してしまったぼくを、義兄さんは見逃さなかった。
「優一くん……やっぱり、なにかあったんだろ。目が泳いでるよ。やましいことでもしてたのかい? この場で正直に話したほうが、ずっと身のためだよ。聞いた内容によっては……しめあげるがな」
 ぼくは固唾をのんだ。こめかみから冷や汗が噴きだす。
 義兄さんの目がすわっている。
 もしかして、殴られるのか。おれ、サンドバッグのごとく、ぼこぼこにやられちゃうのか。おなかからのどまで、きゅっと冷たいものがせり上がるのを感じた。
「……じ、じつは」
 ぼくは白状することにした。ゆうべにあったこと、すべてを。ぼくはウソやごまかしが得意な人間じゃないし、義兄さんをこれ以上怒らせるのは自殺行為だった。
 話し終えると、義兄さんの目に険しさが増した。その無言の圧力が恐ろしかった。鬼の形相そのものだ。
 へびににらまれたカエルさながら、ぼくは全身がこわばって動けなくなった。
 沈黙がしばらくつづき、そして──。
「この野郎っ!」
 すごい勢いでビンタを張られた。
 ぼくはフローリングの床に派手にころがり、その場でうずくまったぴりぴりと頬が熱をもって痛みだす。
「この恥知らずめ。ただですむと思うなよ……!」
 義兄さんはぼくの胸ぐらをつかみ上げて、無理やり立たせた。
 ぼくは反射的に身を縮ませた。顔の前で腕をクロスして、涙声で必死にうったえる。
「やめっ、やめてくださいっ! 義兄さんっ! 暴力は、やめ、てっ……!」
「暴力だ? 君のしたことに比べれば、屁みたいなもんだろ」
 ぼくはポロシャツをはぎ取られた。有無を言うひまもなく、床に四つん這いの姿勢におさえられ、義兄さんの小脇にがっちり挟まれる。つぎにズボンのベルトをはずされ、ずりずりと下ろされる。パンツといっしょに。最後は靴下も巻き込まれて。
 体を覆うもの、すべてを奪われてしまった。
 無防備になった全身が、さらりと涼しい空気にさらされる。
 ぼくはわけもわからず、羞恥に顔を火照らせて抗議する。同性とはいえ、全裸を見られるのは屈辱的だ。
「なっ……なにするんですか、義兄さんっ! やめてくださいよっ!」
「……優一くん。君は、私の義弟だ。君がまちがいを犯せば、お義父さんたちのかわりになって、私がお灸をすえてやるよ。悪いことをしたら相応の罰を、ちゃんと受けるんだぞ」
 突きだした裸のお尻に、生温かくてゴワゴワしたもの……手のひららしきものが、ぴとっと張りついた。
「それに忘れちゃいないな? 君たちが結婚したとき、私は君に、言ったはずだ。妹を傷つけたり、裏切ることがあったら、ぜったいに許さない……って。覚悟はいいな? 優一くん。君は、お仕置きだっ!」

 ──ぱぁん。
(SP)
6 りんご
「うっ……!?」
 ぼくはなにが起きたのかわからなかった。ビリビリと鈍い衝撃をお尻に感じて、はじめて自分が叩かれたのだと気づいた。
 その痛みがひくまえに、さらに連続で叩かれる。
 ぱんぱんぱん──と、お尻を打つ音が、部屋に響きわたる。
「いっ……! ちょ、やめっ、痛っ……!?」
 ぼくは身をよじって暴れる。でも、義兄さんの腕からは抜けだせない。小柄で力の弱いぼくと、筋肉質で体のがっしりしている彼とでは、力量に圧倒的な差があった。
 どういう状況か。ぼくは降りかかる痛みに目を白黒させながら、やっと理解した。
「やっ、やめてくださいよっ、義兄さん! 痛っ……こ、こんな趣味、ないですよっ!」
「趣味? 私は、趣味でこんなことをしないよ。これは、道をあやまった君への懲らしめかつ、妹を裏切ったことにたいする、私的な感情から行ってることだよ」
「くっ……! だからって……だからってこんな……!」
「うだうだ言うんじゃないっ!」
 ──ばしぃっ!
「〜〜っ!」
 すごい一撃がお尻にきた。息が止まるよう強烈な痛みに、おもわず涙がにじむ。
「状況がわかってないようだな、君は。悪いことをした人間にするお仕置きは、昔から決まってるだろ。『尻叩き』だよ」
 このひと……正気なのか。
 とうに成人をすぎた大のおとなが、こんなの。ありえなくないか。
 悪夢かと思って頬をつねってみたけど、痛い。現実のようだ。
 ──ぱぁん。ばしっ。ぱぁん。
「ひぃっ! うぁっ、あ、ひ、ひあぁっ!」
 打たれるたび、ぼくは体をびくつかせ、短い悲鳴をあげる。食いしばった歯のすきまから、勝手にもれ出てしまうのだ。
 ──ぱぁんっばしばしっ。
「ふぅ……ぐす、ひっ、ひぅ……ふっ……」
 もう限界だった。
 気づけばぼくは、ひくひくと肩をふるわせて泣いていた。
 お尻の肉深くまでじんわりと浸透するような痛みが、一打一打ごとに強くなる。それでもたえまなく降りそそぐ平手に、ぼろぼろと涙が出て、おえつが止まらなくなった。
「優一くん、泣いてるのか? いいおとなが、みっともないもんだ」
 義兄さんが泣かせてるんじゃないですか……反論したくても、むろん、そんな勇気もなく。
 ──ぱぁんぱぁんっぱぁん!
「う、うわぁぁん! も、嫌だ……許し、ひっ、に、義兄さんっ。許してください……お願い、ですから……!」
 ぼくは耐えきれずに、声をあげて泣いてしまった。
「許すわけないだろ。この程度で。君のしたことの代償は、こんなもんじゃないっ!」
「い、嫌っ……い、痛いぃ〜! や、やめてぇっ! やめ、てっ……ひ、っく。もぅ、無理ぃ〜!」
 音はリズミカルに鳴り響く。まるで太鼓でも鳴らすように、義兄さんは容赦なく、ぼくのお尻を打ちすえる。びしばしと。
「この大ばか者め。自分がなにをしたのか、わかってるのかっ!? ぜったいに許さんぞっ! うんと痛めつけてやるからなっ!」
 苦痛のあまり、ぼくはお尻を激しく振り、逃げようともがく。
「い、痛いぃ〜! ごめ……なさいぃっ!」
「こらっ、暴れるなっ!」
 頭上から強い叱責を受ける。
「まったく。男のくせに、意地がないのか。君は」
 義兄さんはぼくの体をしっかりと抱き寄せた。くっと腰を持ちあげられ、お尻がいっそう高く突きだす姿勢にされた。
 そして。
 ──ぱぁんっ!!
「ひっ、ぐぅ……!!」
 すさまじい痛みがお尻に炸裂した。まさに目から火花が散る思いだった。突きだして皮膚のピンと張った丸出しのお尻に、平手打ちによる痛覚がずっと増す。
 ──ぱぁんっぱぁんっ。ぱぁんっ!
「あぁぁっ! あぁぁあぁ〜ん!! いだいぃ〜! ごめんなさいぃ許してぇ〜!!」
 ──ぱぁんぱぁん。ぱぁんっ!!
「ひぎゃあ〜ん、い、痛いぃ〜! ごめっ、な、さ……っく、ごめんなざぁいぃ!」
「優一くん、哀れなもんだね。お尻、真っ赤っかだよ? どうだね。大の男が、こんなふうに尻叩かれて、えんえん泣く気分は。まるで子どもだね。自分で、恥ずかしいと思わんかね」
 義兄さんの屈辱的な言葉が、ぼくの心を冷たく抉る。
 でも、そんな羞恥も、すぐに痛みにかき消えてしまう。もはや恥や外聞など、気にするよゆうもなかった。
 義兄さんはいったん、打つ手を止めると──。
「よぉーく、反省しなさいっ!」
 お尻にキツい平手打ちを、何発もつづけてお見舞いした。
 焼けるような痛みの集中豪雨。 
 ぼくはとてもたまらず、背中をえび反りに曲げ、痛みから逃げようと身もだえ、まわらぬ舌で泣きじゃくる。
 ぼくの顔は、涙と鼻水……おまけによだれでぐしょぐしょだろう。
「いだぁいぃ! お尻いだいよぉ〜。うわぁ〜ん義兄ざぁ〜ん、もう許じでぇ〜。ごべぇんなざいぃ〜」
「うるさいっ! 泣いてばかりいるな! 悪いことをするから、こうなるんだっ! ほら、お仕置きだ、お仕置きっ!」
「ぎゃあぁんっいだぁいよぉ〜! もぉじまぜぇんがらぁ〜。おでがいぃ許じでぇ〜〜」
「だめだと言ってるだろ! ほら、もっとしゃんとせんかっ。少しは根性を見せてみろ。男だろうがっ!」
「ごめぇんなざいぃ〜! あぁ〜〜んっ。いだい〜いだいよぉ〜。嫌だぁ〜〜うぎゃあ〜ん」
「こらっ! 尻、逃げるな! ちゃんと罰を受けなさい!」
「うえぇ〜ん〜いだいよぉ〜ごめんなざい〜〜ひぃ〜嫌だよ嫌だ〜〜」
「まだまだ許さんぞ! 優一くん! 君は悪い子だ! 悪い子はこうだ、こうっ!」
 ──ぱぁん! ばしっぱぁん!!
「ぎゃあ〜〜ん!! いだいぃ〜っ」
 ……延々とお尻にくり出される、怒濤の平手打ち地獄。降り積もる激痛の荒波。身動きのとれないぼくは、泣き叫びながら、必死に許しを請うしかなかった。
 でも、義兄さんの手は止まらない。むしろ打つたび勢いを増して、これでもかといわんばかりに、力強くなる一方。 
 終わらない痛み。
 ぼくには、その時間が永遠につづくように感じられた。
(SP)
7 りんご
 ぼくは素っ裸のまま、フローリングの床に正座させられていた。
「これからは反省タイムだ、優一くん。君は今日この瞬間を、しっかり胸に焼きつけておきなさい。自分の行いをじっくり恥じて、心から反省するんだ。もう二度と、同じあやまちをくり返さないようにね。自分を戒めるんだ。いいね? 一時間、そこに正座してなさい」
 ……義兄さんにそう命じられたのだ。
 ジンジンと焼けるように熱いお尻の温度を、足の裏に強く感じていた。
 こんな格好で一時間も正座なんて……。
 ぼくは恥ずかしさにすすり泣きながら、この時間を耐えるのに必死だった。羞恥がふつふつと胸に湧きあがり、全身が燃えるように熱くなる。
 ──優一くん。君は悪い子だ。悪い子の君は、お仕置きだ!
 そんな子ども扱いの言葉とともに、このぶざまな格好で「尻叩き」という、屈辱的な罰を受けたのだ。
 恥ずかしすぎて気が狂いそうだった。
 穴があったら入りたい。そしてもう、二度と出てきたくない。
 痛みと羞恥の炎のなか。ぼくは漠然とそんなことを思った。
(SP)
8 りんご
 一時間後。義兄さんは、ぼくの目の前に仁王立ちした。
「仕上げの仕置きだ。手はじめに百叩き。態度によっては、回数を増やすがね」
 ──直後。体が宙に浮いた。目の前に床が広がる。お尻を天井に向けて高々と突きあげた格好で、ぼくは義兄さんの小脇に抱えられていた。
「い、いやっ、ちょっと待っ……」
「問答無用っ! いっぱーつっ!」
 ──びしぃッ!!
「あぃ……だぁいぃっ!!」
 ぼくは再度泣き叫んだ。
 散々叩かれたあとのお尻なのだ。耐えられるはずもなかった。電流が走るような激烈な痛みに、浮いた足をバタつかせ、思わず鼻水を飛び散らした。
 さらに平手がどんどん落ちてくる。
「いだい……ひぃ〜痛っ……許し、っく、許してください……い、痛いぃ……」
 ──ばしっぱんっ!
「嫌だ……も、無理ぃ〜! 痛い……っく、ひぅ……ぅ……ごめっ、なざいぃ……」
 泣きすぎて声はかれ、体力もすっかりうばわれていた。もはや抵抗しようという気力も湧かなかった。
 終わりの見えない痛みの連続。
 ぼくは、いつ解放されるのだろうか。ひょっとしたらこのまま、死ぬまで折檻され、苦痛を味わいつづけるのだろうか。
 まるではてのない生き地獄を感じた。
(SP)
9 りんご
 やけどしたように痛むお尻をひきずって帰宅したとき。時刻は夕方にさしかかっていた。
 ぼくはまず、玄関近くのトイレに入った。ズボンとパンツに指をかけ、おずおずと膝まで脱ぐ。
 スマホのインカメラ……そこに無惨なものが映った。
 赤紫に染まったお尻。
 ふくらみ全体がひどく腫れあがり、そこに鉛を埋め込まれたような、妙な重みがつきまとう。叩かれすぎてまひした感覚はあるのに、ずきずきと脈うつ痛みを鮮明に感じる。ズボンやパンツがすれるたび激痛が走った。まだ泣きたいくらいに痛い。
 おそるおそる触るとひどく熱を帯びていて、肌がでこぼこに盛りあがっていた。
 ぼくは用を足してリビングに戻った。  
 様子がおかしいと気づいたらしく、妻が心配そうに声をかけてきた。
「優くん、どうしたの? 顔色よくないけど」
「いや……なんか、腰痛くてさ。部屋で少し休んでるよ」
「……そっか。そのほうがいいね。夕飯、いまつくってるとこだけど、どうする?」
「……今日はいいかな」
「わかった。じゃあ、冷蔵庫に入れとくね。今日は冷しゃぶだよ」
「……」
 妻の目を見ることができず、ぼくは逃げるように寝室に入った。
 ドアにもたれかかると、吐いた息がふるえた。鼻がつんと熱くなる。涙があふれるまえに、まぶたを指で強くおさえた。
 ……義兄さんのしたことは立派な傷害だ。彼のことだから、それなりの覚悟をもって出た行動にちがいない。
 でも、ぼくに訴える資格はない。罪悪感を覚えていた今日このごろ、だれかにお咎めを受けたい気持ちも、なくはなかった。その結果がまさか、こうなるとはみじんも想像していなかったけれど。
 妻にどう償えばいいのか……いまはまだわからない。これから長いあいだ、ぼくは自分のあやまちに苦しみ、家族を裏切ったことへの負い目を感じながら、生きていくのだろう。あるいは、それを背負って生きることが「償い」になるんだろうか。
 ぼくはベッドに横になって目を閉じた。シーツにお尻がすれないよう気をつけながら、何度か寝返りをうつ。
 でも、まったく眠れなかった。
(SP)
10 りんご
「わたし、会社やめるの」
 例のバーで彼女が言った。あの日から二週間がすぎた夜のことで、誘ったのは、今回は彼女のほうだった。
「じつはつきあってるひとがいてね。そのひとと結婚することになったの。相手のひと、連れ子なのよ。小学生の娘さんなんだけど、わたしになついてくれててね。とてもいい子なの。それで、家のことはわたしに任せたいっていうのが、相手の希望で。わたしもなるべくなら家にいて、子どもといる時間を増やしたいって、思ったの。もう退職届も出しててね、一か月後にやめるの」
 話すすきを与えまいというように、彼女はひと息にしゃべる。まだ酔いはまわっていないようだ。オレンジ色の照明にてらされた横顔が、さみしげに見えた。
「……なにもなかったんです。あの夜」
 ぼくはビールを二、三口と飲んで言った。口のまわりについた泡をなめてから、つづける。
「黙っててすみません。ずっと言いだせなくて……ほんとうにすみません。ぼくにこんなこんなこと言う資格、ないかもしれないですけど……ご結婚、おめでとうございます」
 ふふっ。と、彼女はいたずらっぽく笑う。
「やっぱり、永野くんはそぼくだね。感情がまんま、表に出ちゃうタイプだもん。ウソがつけない性格っていうか。そこが、永野くんの魅力であって、いいところなんだよね」 
 ……彼女はぼくを責めることをしない。会社の思い出話をなつかしそうにしたり、ぼくがいかに魅力的な人間であるかということを、熱心に説いたりするだけだった。
 あの夜。行為を思いとどまったのは、ふいに家族の顔が思い浮かんだのだ。それでぼくは理性を取り戻した。
 毎朝おいしい弁当をつくって、笑顔で出迎えしてくれる妻。今日は幼稚園でこんなことがあったよと、うれしそうに、何度もくり返し話してくる娘。
 一時的といえ、ぼくはそんな家族にたいし、裏切り同然の行いをした。それが逃れようのない事実だ。
「わたしがいなくなると、さみしくなるでしょ。永野くん、わたしをよく慕ってくれてたし」
「……そうですね」  
 ぽつりともらすと、力強く肩を叩かれた。 
「そんな顔しないっ。永野くんは、にこにこ笑ってる顔がいちばんだよ。ねっ。すぎたことは忘れよう。忘れて、これからのことを考えるの。わたしも忘れるから、永野くんも……ね。お互い、強く生きなきゃね。家族のために」
 マスター、ビールおかわり。あ、彼のぶんも。と言って、彼女はビールのおかわりを二杯、注文した。
 ぼくは目をキツく閉じる。胸の中に熱いものがこみ上げるのを感じながら、新しくきた、あふれそうなほどにビールのつがれたジョッキを手に持つ。
「今日は飲むよー。永野くんと飲むのも、もう……最後だからね」
 ぼくたちは乾杯した。ほんとうに……今日で最後なんだ。そして、お互いがちがう家で、それぞれに暮らしをたてて生きていく。家庭をもった身として。
 ぼくは生涯、忘れないだろう。
 彼女に恋をしたこと。それにまつわる、ホテルでの一連の出来事。それらはきっと、今後のぼくへの戒めになって、苦い思い出としてきざまれるにちがいない。
 そんな考えを、ぼくはビールといっしょに飲みこんだ。
 ビールはやっぱり冷たくて、いつもより苦い味がした。
(SP)