1 熟年妄想族

ポルノ映画館 第三章

新型コロナの外出自粛要請が解除された最初の土曜日に数ヶ月ぶりにポルノ映画館に行った。もちろん、コロナ禍で溜まった欲求不満を解消するためだ。
外の世界はまだマスク姿の人々であふれていたが、私の心の中はすでに完全に自由だった。コロナウイルスによって強制的に閉ざされた私の内なる世界が、ようやく解放される時が来たのだ。
(PC)
2 熟年妄想族
part 1

「例えば……」山田は食後のコーヒーを一口啜ってから語り出した。
「妻は料理好きで毎日きちんと栄養バランスを考えた食事を作ってくれていました。でも私が家にいるようになってからは『せめて平日の夕飯くらいは手伝ってくれ』と頼んだんです。そしたら『私はフルタイムで働いているしお前たちの面倒も見てる。食事まで世話する義理はない』と大喧嘩になりました」
山田は溜め息をつき、遠くを見るような目になった。「他にも小さなことで……私が洗濯物を畳むのが下手だったり、掃除機の音で娘の勉強を邪魔したり……普段は気にならなかったことがどんどん積み重なっていきました。妻もストレスで苛立っていたんでしょうね」
「結局私は会社に行けば気が紛れたんですが妻の方は限界が来たようで……ある日突然『しばらく実家に帰る』と言われました。娘の高校も実家から近いですし」
「それで今一人なのか」
「ええ」山田は軽く肩をすくめた。「もう半年近くになりますかね。最初は寂しかったですが慣れてしまえばそんなものです」
「……なんか悪いこと聞いちまったな」
「いえいえ」
山田は小さく微笑んでカップを置いた。
「ただ……」そこで一度言葉を区切り真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。「あなたも気をつけた方がいいですよ」
「何を?」
「奥さんのことです」
高橋は少し面食らった。自分の家庭事情を指摘されるとは予想していなかったからだ。
「あー……うちは別に……」
「そうですか?リモートワーク中に書類を届けに行ったときに私には不自然に見えましたがね。お二人ともどこかよそよそしくありませんか?」
その通りだった。パンデミック初期の頃こそ高橋も会社で働き続けたが感染の恐怖から妻の強い要望でリモートワークに移行した。以来子供の面倒は任せっきりだし夜は寝室が別々になっている。休日でも子供とは最低限の会話しか交わしていない。妻に至っては目も合わせてくれなくなった。
「……気づいてたか」
「ええ。ずっと観察していましたから」
山田はいたずらっぽく笑った。しかしその表情の奥には確かな洞察力を感じさせる。高橋は観念したように頷いた。
「ああ。参ったよ全く。感染するのが怖いと言って3年もセックスレスなんだ」
「あの頃は誰もが過敏になっていましたから俺も同じくらいセックスレスでしたよ」
山田は頷きながらコーヒーを一口飲んだ。カップの湯気がゆらゆらと揺れている。
「でも今思うと……独身時代に戻った気分で楽しんでます」
高橋は黙って聞いていた。
山田は頭を掻いた。その姿に高橋は不思議な親しみを感じた。いつも静かな同僚だったが今日は特別な一面を見せてくれたような気がする。
「だから休日もつまらないものですよ。たまには高橋さんと飲みに行きたいですね」山田はそう言って小さく笑った。その口調に嘘偽りは感じられない。
(やっぱり気づいてない?)
高橋の胸に安堵と落胆がない交ぜになった感情が渦巻く。映画館での出来事は本当に"事故"のようなものだったのだろうか。それとも山田の中で何か別の意味があるのだろうか。
「じゃあ今日行くか?」
高橋が思い切って提案すると山田の目に一瞬光が宿ったように見えた。
「喜んで」
その日の夜。二人は馴染みの居酒屋「あぶさん」のカウンター席に座っていた。焼酎のお湯割りが目の前に置かれると山田は嬉しそうにグラスを手に取った。
「乾杯しましょうか」
「ああ」高橋もグラスを合わせる。チンと小気味よい音が鳴り響いた。
「久々ですねぇ」山田は焼酎を一口飲んで幸せそうに呟いた。「こういう時間が一番落ち着きます」
「確かにな」高橋も同意する。仕事帰りにこうして酒を酌み交わす時間が好きだったことを思い出す。あの頃は何を話しただろうか。取引先の愚痴?新人教育の苦労?それとも野球の話題?どれも思い出せないが確かにそこに楽しさがあったはずだ。
山田は唐揚げをつまみながら言った。
「最近は一人で晩酌することが多いんですけどどうも味気なくて」
「分かる。やっぱ外で飲むと違うよな」高橋も同意する。
そこからしばらく雑談が続いた。仕事のこと趣味のこと。けれど高橋の意識は時折昨夜の出来事に飛んでしまう。映画館の暗闇の中で交わした吐息。あの時感じた熱さ。
「高橋さん?」
ふと我に返ると山田が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「あ……いやなんでもない。ちょっと考え事してた」
山田は微笑んだ。
「お疲れですね。無理もありませんけど」
そう言って枝豆を摘まむ横顔を見つめながら高橋は思った。(本当に……何も知らないのか)
その夜二人はいつも以上に饒舌だった。お互いの近況報告や過去の思い出話。仕事以外でも色々と話し合ったような気がする。アルコールが回ってきたせいもあり気づけば22時を回っていた。
「そろそろお開きにしますか?」山田が腕時計を見て言った。
「そうだな」高橋も同意する。だがどこか名残惜しい気持ちがあった。
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part 2

店を出て駅までの道を並んで歩く。冷たい夜風が酔った頬を撫でていく。
「今日は久しぶりに楽しかった」
山田が突然立ち止まって言った。月明かりに照らされた彼の顔が赤く染まっている。
「俺もだ」
高橋も正直に答えると山田は嬉しそうに笑った。
「じゃあ今週末も行きましょうよ。今度は焼鳥でも」
「ああ」
そう言って別れた後も高橋の胸には奇妙な高揚感が残っていた。それは単なる同僚への友情以上のものなのかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。
(明日の朝礼で会うのが少し楽しみだな)
翌朝。高橋が出勤すると既に山田が自分のデスクに座っていた。いつも通り整然と整理された資料の束。黒縁眼鏡の奥で落ち着いた瞳がキーボードを叩いている。
「おはよう」
「おはようございます」
短いやり取りだが不思議と暖かいものを感じる。昨日の夜のことを思うと余計にそう感じた。
その日の昼休みも二人は食堂で食事を共にした。
「そういえば最近読んだ本で面白かったものがあって……」山田が焼き魚をつつきながら言う。
「へぇどんな?」高橋も興味を持つ。
「海外SFなんですけど主人公が自分の脳内に仮想現実を作り出すという話です」
「なんだそりゃ」高橋は笑った。「まるで小難しい理論みたいな話だな」
「実際にあるんですよ。認知科学の研究では脳内で作り出せる世界にも限界はあるらしいですけど」
「ふぅん」
高橋は適当に相槌を打ちながら卵焼きを頬張る。相変わらず山田は博識だ。いつもは仕事以外で話すことなどあまりなかったがこうしてみると意外なほどに会話が弾むことに気づく。
(案外……相性が良いのかもな)高橋は心の中で呟いた。パンデミック以前の距離感では分からなかったことだ。映画館での一件以降二人の間に生まれた妙な空気感がその可能性を示唆していた。
「高橋さん」
突然山田が真剣な表情で名前を呼んだ。
「なんだよ」
「今度の金曜日なんですけどよかったら駅前に新しくできた焼き鳥店に行きませんか?女子社員の間で美味いって評判なんですよ」
「ああ構わないぞ」高橋もすぐに応じた。別段断る理由もない。
「ありがとうございます」
山田はホッとした様子で微笑む。その表情の奥にある複雑な感情に気づかないまま高橋は頷いた。
そして金曜日の夕方……
「でもあれだな」高橋は焼き鳥屋への道すがら呟いた。
「何がですか?」山田が隣を歩きながら尋ねる。
「静かな雰囲気の店だったら嫌だな。俺はガヤガヤしてる店の方が好みだな」
「そうですね」山田も同意するように頷いた。「ただ……高橋さんと一緒ならどんな店でも楽しめると思います」
その言葉に高橋は一瞬動きを止めた。何気ない一言だが妙に引っかかる。まるで自分が特別扱いされているような錯覚を覚えた。
(まさかな……)頭の中によぎった疑問を振り払う。きっと深い意味はないはずだ。
「それにしても」山田が店の看板を見上げながら言った。「ここかなり人気みたいですね。待ち行列ができてますよ」
「まぁ流行ってる証拠だろ」
高橋も列に並びながら答える。その間も山田はスマホを取り出して何か調べ始めた。おそらく店のメニューか何かだろう。
(本当に熱心だな)高橋は感心半分呆れ半分で山田を観察する。こんな些細なことにも手を抜かない姿勢が仕事でも生きているのだろう。
「あ……すみません高橋さん」山田が突然顔を上げて謝った。「注文する時に迷っちゃいけないと思って」
「別にいいって。ゆっくり決めればいいじゃないか」
「いえそういうわけにもいかないので」
山田はまたスマホに視線を落とすと真剣な表情で何か操作し始めた。
ようやく順番が回ってきて店内に入った時にはすでに17時半を過ぎていた。テーブル席について早速ビールを頼む。
「さて何にしようか」
「おすすめは皮とぼんじりだそうです」山田がスマホを見ながら答える。
「詳しいな」高橋は笑った。「まるでガイドブック見てるみたいじゃないか」
「まぁ……ネットで調べたらすぐに出てくる情報ですから」
山田は謙遜したように笑うとタッチパネル式の端末を操作し始める。その仕草の一つ一つが几帳面すぎて逆に滑稽にさえ思えた。
「そう言えば食堂での話だけど」高橋がふと思い出したように言う。「脳内で仮想現実を作るっていうのはどういう仕組みなんだ?」
「えっと……それはですね」
山田は箸を置いて説明を始めた。「まず脳内では電気信号を使って情報を処理していてそれを神経細胞が受け取って解析しています。つまり感覚器官から入力されたデータを元に我々が見る世界を作り上げているわけです」
「ふぅん」
高橋は相変わらず焼鳥を頬張りながら聞き流す。小難しくて理解できない部分も多いがとりあえず山田が楽しそうなので良しとする。
「例えばですね」山田はさらに説明を続ける。「夢の中で奇妙な風景を見ることがありますよね?あれも一種の仮想現実だと言えます」
「でもあれって現実じゃないからなぁ」
高橋は苦笑する。現実離れした状況が夢にはよくあるものだ。
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part 3

「確かに。でも実際には脳内で生成された幻影を見るわけですから原理的には同じことです」
「なるほどねぇ」高橋は適当に相槌を打つと残りのビールを一気に流し込んだ。アルコールで程よい陶酔感に包まれる。この瞬間がたまらない。
「ところで」山田が急に話を変えた。「高橋さんは最近何か新しい趣味を見つけられました?」
「いや特には」高橋は首を振る。
「そうですか。実は私も何か始めたいと思っているんですけどなかなかきっかけがなくて」
「映画とか見に行かないのか?」高橋は何気なく提案する。
「映画ですか?悪くないですけど一人だと退屈しちゃうんですよね」
山田は苦笑いしながら焼鳥を頬張る。その表情から寂しさが滲み出ていた。
「じゃあ誰か誘えばいいじゃないか。家族とか友達とか」
「それが……」山田は言いづらそうに言葉を詰まらせた。
「ん?」高橋が促す。
「娘とは別居中だし妻とも微妙な距離感なんです」
「あぁそうか」
高橋も少し同情してしまう。別居中の家庭環境では気軽に誘える相手も少ないだろう。
「ポルノ映画館なら一人でいけるぞ?」
高橋は冗談めかして提案する。山田の反応を確かめたいと思ったのだ。
「それってどういう意味ですか?」山田は一瞬怪訝そうな顔をした。
「いや別に深い意味はない」高橋は慌てて否定する。「ただポルノ映画って基本一人で観るものだろ?」
「まぁそうですけど……」山田はまだ納得していない様子だった。
「別に変な意味で言ったわけじゃない。純粋に映画として面白い作品もあるしな」
「たとえばラストタンゴ・イン・パリとかな」
「社会に問いかける問題作で世界中に物議を醸し猥褻映画だと批判もされたが同時に芸術作品としても評価された」
「ふぅん……」山田はまだ疑念を抱いたままだった。
「まあ騙されたと思って行ってみろよ。結構ハマる人もいるらしいぞ」
「分かりました」山田は渋々といった様子で頷く。
その後しばらく談笑していたものの結局その日は映画に行くという話にはならなかった。
だが翌日から高橋の胸には小さな期待が芽生えていた。山田が本当にあの映画館へ足を運ぶかどうか確かめるため密かに計画を用意したのだ。
そして1週間後の週末……
「今日どうする?」高橋は聞いた。
「もちろん。山田は飲むしぐさをした」
週末の夕暮れ時、駅前の小さな居酒屋「串吉」はサラリーマンで賑わっていた。高橋と山田は座席が二人分しかない角張ったカウンターの奥に座り、熱燗をちびちび舐めながら焼鳥をつつく。
「高橋さん、お疲れ様です」
「おう。お前こそな」
二人は軽く盃を合わせた。
「先週の金曜のアレ……」
「アレって?」
「ほら、例のポルノ映画のことだよ」
高橋は声を潜めながら肩を寄せる。山田は一瞬固まったあと、咳払いをして周囲を見回した。
「ここでその話は……」
「誰も聞いてないさ」高橋はニヤリと笑う。「それよりお前も知ってるだろう?郊外のポルノ映画館」
「行ったのか?いつ?」山田は困惑した様子で質問を投げ返した。
「ああ!翌日行ったよ」
「セックスレスで欲求不満なのか?」
「それもあるけどな」高橋は笑いながら言った。
「それでどうだった?」
「そしたらさ、親父がさ親父のチンポをシャブってるんだぜ。それ見て映画よりも興奮したよ」
山田の表情が硬くなる。
「それで?」山田が少し身を乗り出し尋ねた。
「ああ」高橋は手の甲で額の汗を拭いながら話を続けた。「その映画の内容よりもさ、目の前に映ってる男同士の絡みに釘付けになったんだよ」
「へぇ……」山田は目を細め興味深そうに相槌を打つ。
「そしたらオレの股間が反応しちゃったんだ」高橋は苦笑しながらズボンの前を押さえる仕草を見せた。
「せがれが完全に勃っちまってさ」
「それって……つまり?」山田は少し躊躇いながら問いかけた。
「いやぁ正直言うと男同士の絡み見て興奮しちゃったんだよ」高橋は率直に告白すると熱燗を一気に呷った。
「普段女優見て興奮するだけだと思っていたのに……」
「そうか……」山田は考え込むように呟いた。
「だからかな?なんていうか……自分の中に新しい扉が開いた感じがしたんだ」高橋は照れ臭そうに頭を掻いた。
「それまで想像もしなかった性癖が眠ってたんだろうな」
高橋はさらに身を乗り出す。
「いや……シャブられて気持ちいいんだったら男でもいいかなって思ってさ。お前は思わないか?」
「それは……」山田は言葉を詰まらせた。「確かに……」
「な?」高橋は満足げに笑う。
その表情からは本気で言っているのか冗談なのか読み取れない。
アルコールで上気した顔が赤らんで見えるだけだった。
「思い出しただけでもう勃っちまったよ」
高橋はズボンの上からイチモツを握った。
山田は慌てて周囲を見回した。幸い死角になっていて他の客たちは盛り上がりこちらに注意を払っていないようだ。

続く
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