9 南◆QyhO
>>1

平日の昼間に、特に何をするでもなくぼんやりとしながら、しっかりと歩道の真ん中を歩いていた。

数メートル前方に、「真顔も笑顔」と言わんばかりの、これみよがしに可愛らしい老婆が現れたので、俺は道を譲ろうと半身になり、車道に少しはみ出すくらい上半身を海老反りにして老婆が通過するのを待ち構えていた。

道幅が狭くて、人一人の歩行がやっとだから。


(ID:7xcaPt)
10 南◆QyhO
>>1

「こんにちは。ありがとうね」

すれ違いざま、どこの誰とも判らぬ俺のような無職に対して、優しく声を掛けてくれるであろう老婆。人と人とが繋がる刹那はなんだかやたらと嬉しくなる。

むろんフレッシュな女の子の元気いっぱいな瑞々しい挨拶も捨て難いが、いまは老婆と俺しかこの歩道には居らぬ訳だし、なんといっても老練の極みが魅せる一礼には期待せずにはいられない。これだから昼間の散歩はやめられない。病み付きになる。歩行意欲が増進する。明日を生きる活力が噴き出してくる。誰しもが眼を細めずにはいられない。


そんなぽかぽか日和の情景を100%思い浮かべながら、俺は少し気分を昂らせて海老反りを維持していたのだった。


(ID:7xcaPt)
11 南◆QyhO
>>1

だがしかし現実とは残酷なもので、老婆は礼や笑顔を発するどころか、目の前までやって来ると突如として不機嫌そうな顔色になり、物凄い形相を俺に浴びせて去っていった。

人間に牙を剥き威嚇する野生の猿のような、獣じみた表情。

以前、野生の猿の危険な生態などお構いなしに奴等の生息地へ足を踏み入れてしまった無防備な観光客たちが、猿の群れに襲撃される映像を観たことがある。

とりわけ印象的だったのが、観光客が持っていたかっぱえびせんを、腹ペコになった一匹の凶暴な猿が人間離れした跳躍力を活かして強奪した瞬間だ。


(ID:7xcaPt)
12 南◆QyhO
>>1

老婆の表情は、あのときの猿と少し重なって見えたかもしれない。老婆もまた腹ペコであったのだろうか?女性は空腹だと不機嫌になるというし、それが昂じて無自覚なまま獣人化してしまったのかもしれない。


いずれにせよ俺の顔面は驚きに満ちて硬直。未知との遭遇。俺の辿ってきた人生に於いて、嘘偽りなく前例のない緊張感と恐怖心が直撃。

老婆の気合いがあっという間に場の空気を支配して、俺は成す術もなくただ茫然と立ち尽くし、老婆が立ち去った後でさえ、ただひたすら固まった時が溶け始めるのを待つことしか出来ない情況に追いやられたのだった。


(ID:7xcaPt)
13 南◆QyhO
>>1

俺は無職であるゆえ、当然社会的信用など皆無であることは重々承知だ。確かに一礼するほどの価値を有していないのかもしれない。

だが、俺にだって人を思い遣る気持ちはある。特に老人や子供、見た目の良い女の子には。

そんな何気ない善意に、特段の理由も告げることなく獣じみた老婆が牙を剥くとは、なんとも危うい、無情な世の中になったものだ。深呼吸をするしかない。


(ID:7xcaPt)
14 南◆QyhO
>>1

とても不快な気分になったけれど、それは何故だと考えてみたところで、獣人との間に意志疎通など計れそうもなく、全く事情が飲み込めぬまま単に気分が暗くなるだけだろう。馬鹿正直に、潔く肩を落として無益な時を刻んでいても仕方ない。


俺は心を落ち着かせるため、とりあえず何か気を紛らわせてくれるものはないかと辺りを一瞥した。

たとえば、猿の着ぐるみを着た本物の猿が、おどけた様子で愛らしいダンスを披露してくれるとか。


(ID:7xcaPt)
15 南◆QyhO
>>1

だが、そのような現実離れした出来事など絶対に起こるはずがない。俺は小さく破顔した。自虐的に。我ながらご都合主義も甚だしい。世の中はそこまで牧歌的に成り立ってはいない。いまさっき気付かされたばかりではないか。

だから俺は百メートルほど先に設置されている歩行者用の信号機に注目した。現実的に。

というのも、俺は信号待ちをしていると思考が停止してしまう。何故だか判らぬのだが、一度そうなってしまうと信号が青に変わり歩行許可が降りても暫くの間は微動だにしない。

だからスムーズに信号を渡るため、あらかじめ準備をしておく。青信号に合わせて歩幅を整える必要がある。これは、無駄な歩行停止にぷりぷりしたりせず、効率良く心地好い散歩を実現するための俺オリジナルの処世術だ。


(ID:7xcaPt)
16 南◆QyhO
>>1

「あれ、あの信号機は手押しだったかな?」


誰かの傷口に絆創膏を貼ったり、気を利かせて包帯など巻こうものならたちまちのうちにスポイルされてしまう。そんな世の中。

すると俺の発した、とりとめのない心の呼び掛けに呼応するように、本来無機質であるはずの信号機が点滅を始めたのだった。


(ID:7xcaPt)
17 南◆QyhO
>>1

「短距離走が始まる」

俺は咄嗟にそう判断した。

すると、どこからともなく短距離走についての不思議な会話が聴こえてきたのである。聴き慣れた声かもしれない。


「そうか。なるほど。そんなことなら空砲が鳴らされた途端にダッシュせねばなるまい。君も存じていることであろうが、それが紋切り型の短距離走。距離が短いぶん、スタートにしくじれば全ての努力が水の泡となることは自明だ」

「むろんそうだ。例えばの話、青春の全てを投げ打ってまで短距離走に情熱を注いできた男が居るとする。そしてその血の滲むような努力が名も知らぬ誰かを死に至らしめるような事態に発展したとする。しかしそれでも、やはりそれでも残酷なまでに男の運命はスタートの一瞬で決してしまう。スタートを切るより他にない。それが短距離走」

「そう。だから空砲を合図に規則正しくスタートを切るしかない。心を鬼にするしかないのだ。ましてやフライングで失格など言語道断。自害せよ。それが紋切り型の短距離走だと思う。お見合いでも商談でも、それほどまでに第一印象は大切。紋切り型を死守せねばならぬ」


(ID:7xcaPt)
18 南◆QyhO
>>1

俺は短距離走はおろか、陸上競技などとは無縁に育ってきた。「短距離走が始まる」などという咄嗟の判断も、もちろん初めて。むしろ「短距離走」という言葉自体、無為に嫌悪感を覚えてしまうかもしれない。

けれども仮に、言葉通り本当に短距離走が始まってしまったら?

むろん俺は散歩をしているのだから、走り出したくなんかない。手首足首をこね回すなどの予備動作も極め込んでいない。不安定なメンタルのまま出走者(俺)が転んで怪我をするかもしれない。打ち所が悪ければ死をも覚悟せねばなるまい。


(ID:7xcaPt)
19 南◆QyhO
>>1

さらにはスタートの空砲を聴いた周辺住民は銃声の凶音と勘違いして胸騒ぎを覚えるだろう。それではまるで人としての配慮がなっていないし、その前にいったい誰が空砲を鳴らすというのだ。

そして今一度自己申告しておくが、俺は陸上競技などとは無縁に育ってきた。というか、運動は全般的に苦手だ。


その様なずぶの素人が、恣意的な判断により公道で短距離走を始める。

これがどれほど反社会的で無謀な、軽率で無責任な行為であるのか。大抵の良識ある日本人ならばわきまえているだろう。


(ID:7xcaPt)
20 南◆QyhO
>>1

そこで先程の不思議な会話と辻褄を合わせてみると、どうやら俺は咄嗟に下した無責任な判断の言い逃れをするため、俺のなかにもう一人の俺を出現させて短距離走について知ったかぶりの意見交換を始めてしまったらしい。

苦し紛れの一人芝居。幾重にも嘘を重ねる人間の心理が、いまならば判らぬこともない。

俺のなかで不思議な会話が始まり、不思議なロジックにより無責任な判断の過失を限りなくファジーなモノへと変質させてゆく。


別角度から言い換えると、俺は俺自身の判断に対して、常に言い訳可能なシステムを常備していることになる。ほぼ無意識のうちに自責を先取る形で防衛本能が働き、抗えそうもない現実から精神が局面的解離を催すのだ。


(ID:7xcaPt)
21 南◆QyhO
>>1

しかしこのままだと俺は大変厄介なことになるかもしれない。無職なうえに、もしschizophrenia(精神分裂病)だとしたら。


元を正せば、いったい俺はなんのために信号機に眼を遣ったのだろうか。獣じみた老婆の仕打ちから解放されるため、心を落ち着かせるため、心身ともに歩幅を整えるためだったのではないだろうか?

厄介なことに、心の整理がつかぬまま、脳内に再びもう一人の俺が現れてしまった。


(ID:7xcaPt)
22 南◆QyhO
>>1

「人は歳を重ねゆくほど言い訳が増えてゆくものだ。それは俺とて例に漏れず。自分に自信がないからであろう。他者と自分を比べざるを得なかったりするからであろう。社会とはそのような競争を煽り立てる仕組みで成り立っている。自分のほんとうの幸せとは何かだなんて、愚にも付かぬ憂慮ばかりを繰り返して結局なんにも行動に移さない無職。それが俺。そしてお前だ」


「キーキッキッキッキッキー」


(ID:7xcaPt)
23 南◆QyhO
>>1

もう一人の俺が俺の核心に触れたような気がした。俺は不思議と気分が落ち着いて、そして全身の毛を逆立てるように笑った。

根拠など要らぬ。
貯金も要らぬ。
保険証も要らぬ。
己以外要らぬ。

「キーーッキッキッキーー」

笑い声とともに不毛なカタルシス、紋切り型のカタルシスが粉々になって消滅した。何かが吹っ切れた。俺はただ盲目なるままに自分を信じてみようと思った。なにひとつ怖がらずに盲信すれば良い。むしろ己以外、他に誰を何を信じろというのだ?己の存在以外、他に確からしいモノがあるのならいま直ぐに御教示願いたい。

短距離走だって、リスクばかりに囚われているではなく、やってみなければ判らないじゃないか。誰もが金や知識のインプットばかりに躍起になり、アウトプットを怖がる。ポジショントークに花を咲かせる臆病者ばかり。


(ID:7xcaPt)
24 南◆QyhO
>>1

「差し出した善意に獣じみた老婆が牙を剥く世の中?冗談じゃない!理不尽じゃないか!なにが腹ペコだよ糞が!糞喰らえだあの糞野郎!もう一度俺に牙を剥いてみろ!!猟友会に頼んで撃ち殺してやる!!死骸の顔面に脱糞してやるよ!」


すると神通力かもしれない心の叫びが通じたのだろうか。

ほんとうに“パン!”という空砲が、全ての理不尽な者たちの虚を突くように鳴り響いたのだった。


(ID:7xcaPt)
25 南◆QyhO
>>1

もちろん、空砲の正体は銃による発砲ではないと直ぐに判った。本物ならばそれは銃刀法違反だから。

日本という国の銃規制と、世界を見渡したときに感じる相対的な幸福度を鑑みれば、何の変哲もない日本の昼下がりに空砲が鳴り響く理由が見当たらない。観光客を襲撃する猿だって、滅多に射殺されることはないだろう。

ならば空砲の正体は。

それは、俺の横を嘲笑うかのように猛スピードで走り抜けたハーレーダビッドソンという二輪車が、バックファイヤーという技を披露した際に発した炸裂音らしい。

そして息つく間もなく“キーーッ……!”


(ID:7xcaPt)
26 南◆QyhO
>>1

ハーレーダビッドソンは、交差点の手前で即死レベルの絶望的な転倒。

ハーレーダビッドソンは、ほぼ間違いなく死んだ。雰囲気的に。文句のつけようがない。

ハーレーダビッドソンは、車道へ飛び出した素人ランナーを命懸けで回避したのだった。

ハーレーダビッドソンは、実に慈しみのある健全な死に様を、何ひとつ恥ずかしがらずに見せ付けたのだった。


(ID:7xcaPt)
27 南◆QyhO
>>1

俺は運転免許証を持っていないし、ほんとうに驚いて愕然となり驚愕した。こんなに劇的な出来事は、滅多に体験出来るはずがない。俺がどれほど驚いたかというと、先程の獣じみた老婆など猿の着ぐるみに見えてしまうほど驚いた。

そして気が付くと俺は訳も判らぬまま反射的に事故現場の交差点のほうへとスタートを切っていたのだった。


(ID:7xcaPt)
28 南◆QyhO
>>1

「ハーレーダビッドソンのエンジンが勝手に掛かって勝手に走り出して勝手に事故に遭って死んでしまったかも!」

現場へと走る俺の後方から女性の叫び声がした。彼女もまた現場へと向かい俺を追い掛ける形で走っている。追走だ。ハーレーダビッドソンのオーナーなのだろうか?

彼女が酷く狼狽した様子であるのは、発言の支離滅裂具合から察することは出来たが、後方からそのような気の触れた声掛けをされても俺はどうしたら良いというのだ?面と向かって喫茶店などでわくわくしながら談話しているならまだしも、二人とも息を切らして走っているのだ。

「もしかしたら彼女は薬物を乱用していて、銃というか、厄介な凶器を装備しているかもしれない。鉄パイプとか猿轡とか。時代錯誤も甚だしい、ヘルズエンジェルス気取りの積極的な変質者かもしれない……」


(ID:7xcaPt)
29 南◆QyhO
>>1

冷静に、常識的に考えて、陸上選手でもない限り散歩中の銃声や炸裂音に反応して全力疾走など可笑しな話だった。訳も判らぬまま勢い任せに走り出すなんて馬鹿だった。我関せずの事なかれ主義を貫くべきだった。短距離走など、なにひとつ有意義ではなかった。


散歩好きなら誰だってゆっくりと優雅に、平和な雰囲気のなか昼下がりの散歩を満喫したいだろう。

特に俺のような無職の人間にとって、散歩という行為は未来の自分へ宛てた可逆的哲学の時間だ。


(ID:7xcaPt)
30 南◆QyhO
>>1

だから、はっきり言ってこの状況は災難だ。たとえ女であろうとヘルズエンジェルス。ならばそれなりの走力がありそうな気がする。そんな先入観が、俺の両足に極度のプレッシャーをかけて憚らない。いつものように、自由自在な歩幅の確保など到底無理。俺の両足が制御不能だと注意を喚起している。単に運動不足なのかもしれない。


いずれにせよこのままだと足がもつれて転んで、滅茶苦茶に衣服をナイフで刻まれて強姦されるかもしれない。その前に打ち所が悪ければ死をも覚悟せねばなるまい。


(ID:7xcaPt)
31 南◆QyhO
>>1

「冗談じゃない!俺は散歩をしていただけなのに!平日の昼間だぞ!いったい何故だよ!日本の治安は、たった一人の無職の慎ましやかな昼下がりの歩行すらままならぬほど形骸化してしまったのか!平日の昼間なのに何故だよ!」

「いや、まさか淘汰かもしれない?無職や乞食などの社会的劣等種は、片っ端からヘルズエンジェルスの餌食になっても致し方ないと見做されてしまうような世論が俺の知らぬ間に形成されてしまったのか?確かに俺はニュースなど一切観ないし時事ネタとか異常に弱くて疎いんだから……」


(ID:7xcaPt)
32 南◆QyhO
>>1

俺は急に恐ろしくなって、どうにかしてこの得も言われぬ不可逆的な空間から逃れたく思い、名も知らぬ誰かの即席の同情を誘いたい一心で悲痛気味に叫んだ。

「だれかー!」


だが俺は俺の悲鳴を聴いただけで誰の同情を得られた訳でもなく、さらなる混乱を催しただけだった。


(ID:7xcaPt)
33 南◆QyhO
>>1

生活保護を打ち切られたら、もう自殺するしかないのだ。

けれど素人なりに俺はいま走っている。

このままの勢いで、迷うことなく、全体重を乗せて、飛び込むようにして、この国の首相の顔面に肘打ちをする。正しくはこめかみに。

一発目の打撃のあとは、驚いた首相が苦痛に歪む顔面を数秒は見守る。そして二発目からは連撃。首相は我慢強く両腕のガードを上げ続けるかもしれないが、構わずにその上から連撃。ガードを剥がすつもりで左右の肘打ち。

遂に首相のガードが下がってしまったら、最後は顎に膝蹴り。それなりの手応えがあるはずだ。


(ID:7xcaPt)