駒形神社掲示板

過去ログ57 2013/8/14 11:45

▼ピーチソーダ
>雄略天皇の御代という文言も明細帳には記されておりません。
ウカノミタマ神も表記されておりません。

この説がいったいどこから伝えられているのかが謎です。
証拠が残されていないのですよね。
昔の奥宮は朱塗りでしたが、もしかしたらお稲荷さんを祀っておられる、と勘違いされたのかな……。
8/14 11:45

▼ピーチソーダ
http://www.genbu.net/data/mutu/komagata_title.htm

ご存知と思われますが、ここから聞いた事でもありました。
ここで記されている「社伝」というものがどういうものかは見た事がありませんが、
hPで書かれている事の全てがありうるような気がしてきます。
神様というのは、様々な姿を持っており、単純に捉えられるものではないのかな……、と。

祭神が駒形大神である事は間違いないと思います。
8/14 11:21

▼宮司
ピーチソーダ様
ご無沙汰しております。
社殿についてお知らせいたします。
昭和十六年に新訂した神社明細帳によると、祭神は「駒形神」です。
由緒には諸説あることも記載されております。
関東の毛野氏一族の東北地方開拓の件、
大和武尊東征の折、山頂に六神を奥州鎮護神として奉斎の件、
神仏混淆にして馬頭観音や馬霊を信仰
などなどありますが、
仁寿元年(851年)、貞観四年(862年)の文徳実録には「駒形神」としか表記されておりません。
雄略天皇の御代という文言も明細帳には記されておりません。
ウカノミタマ神も表記されておりません。
駒形神社の神職としては、「ご祭神は駒形の大神様です。創始は不詳です。」としか言いようがないのです。証拠が残っていませんので・・・。
しかしながら、
事実を確認するため、時代を鑑みながら推測してみると、
第十二代景行天皇の子、大和武尊が東征の折、毛野氏一族(第十代崇神天皇末裔)に北征の指示をだし、毛野氏が甥っ子ともいうべき大和武尊の名を借りて北征した可能性もあります。なぜなら、本拠地の赤城山に似た山々に駒ケ岳もしくは駒形山と命名しながら北征したからです。
「駒」は高麗文化の憧れを示しているものと思われます。
また、当地方を平定した上毛野胆沢公の名前より「胆沢」の名称が残ったとしたら、また、南都田の角塚古墳が前方後円墳(天皇家直属以外は円墳または方墳)が胆沢公のお墓だったとしたら、なんとなく胆沢公をもっと調べたくなります。
小生にとってのキーパーソンです。

京都丹後の籠神社の海部禰宜様と先日お話しいたしましたが、
「その時代、海部家の末裔がかなり東北地方に行っていたようです。」と伺いました。
そのことから、籠神社とのつながりも出てきたのかもしれません。
奥宮にしても、もともとは経塚山が駒ケ岳であり、850年建物を建てる際に現在の駒ケ岳にお遷りになったという伝承もあります。奥宮は経塚山に背を向けていますので、現在の駒ケ岳山頂の奥宮が現在の経塚山に対する遥拝所であったような捉え方もできるのです。
いずれにしても、長い歴史の中で、「駒形神」に対する推測や誤解が民間信仰に広がったり、武家時代の政治(まつりごと)とともに変遷したりしておりますが、
ご祭神が「駒形神」であることだけは間違っておりませんので、このことだけを強調させていただきます。
8/13 15:00
HP

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