北海道
北海道
湯口徹氏の鉄道ファンに投稿された「簡易軌道のはなし」では下記の様に記述されています。“昭和21(1946)年11月3日、日本国憲法公布、従来の明治憲法に代わって地方自治が柱の一つとなり、翌22年12月31日には現在の建設、自治、農林各省をはじめ、警察庁、北海道開発庁などの省庁をひとまとめにした、極めて大きな権限と勢力を誇った内務省が解体された。(中略)それ(昭和25年の北海道開発法制定)によって国の機関である北海道開発局が設置されたのは、田中知事再選の直後であった。同局の設置の理由がそれだけではないのも確かだが、決して無縁ではない。沖縄もほぼ同じで、選挙に際し着実に票と結びつく建設事業の大部分を、革新知事から取り上げたという政治的背景が無視できないであろう。これによって、従来の殖民軌道も「簡易軌道」と呼称を変えて農林省所管となり、改良や新設工事はすべて国直轄で北海道開発局が施工することになる。施設・車両などは北海道知事が国の代行機関として管理するが、昭和28年以降地元町村長と委託契約を、財産についてが財産管理協定を締結し、それぞれ地元町村営軌道として新発足することになったのである。(中略)国有財産である車両や施設の維持に対しては、土地改良法に基づく3/4補助制度が実施された。これは北海道知事を通じて農林省が行なうものだが、改良工事が実施された部分は開発局所管であり、新設された部分は補助対象にはならない。”
1951年08月31日の官報では、総理府令第三十七号 北海道開発法(昭和二十五年法律第百二十六号)第十四條、第十五條及び第十六條の規定に基き、北海道開発局組織規程を次のとおり定める。昭和二十六年八月三十一日 内閣総理大臣 吉田茂
第十一條 開拓課においては、左の事務をつかさどる。
二 簡易軌道建設工事の設計及び実施に関すること。
とあります。
いずれにしても、国の管理下であった時代ですので、1953年の廃止も届け出ではなく、告示による公布によったと思われます。ただ、ご指摘の通り、実体としての廃止(運行されなくなった時期)は、それより早い時期であったというのが、おそらく正しいのではないかと考えています。
1951年08月31日の官報では、総理府令第三十七号 北海道開発法(昭和二十五年法律第百二十六号)第十四條、第十五條及び第十六條の規定に基き、北海道開発局組織規程を次のとおり定める。昭和二十六年八月三十一日 内閣総理大臣 吉田茂
第十一條 開拓課においては、左の事務をつかさどる。
二 簡易軌道建設工事の設計及び実施に関すること。
とあります。
いずれにしても、国の管理下であった時代ですので、1953年の廃止も届け出ではなく、告示による公布によったと思われます。ただ、ご指摘の通り、実体としての廃止(運行されなくなった時期)は、それより早い時期であったというのが、おそらく正しいのではないかと考えています。
神奈川
管理人様へ,
殖民軌道斜里線の実質廃止は1951年で,役所への廃止届が受理されたのが1953年という解釈で宜しいでしょうか?
それにしても6Kgレールというのは遊園地の遊具のようなレールで驚きましたが,これでも軸重1Ton位は耐えられるのでしょうか. でも,これ位なら脱線しても人力で復旧できそうなので,却って実用的かもしれませんね.
ところで,先の斜里町立博物館の鉄道サイトの続きですが,国鉄根北線という斜里から標津へむかう路線が途中の越川までで挫折したという記録も興味深かったです.
以上です
殖民軌道斜里線の実質廃止は1951年で,役所への廃止届が受理されたのが1953年という解釈で宜しいでしょうか?
それにしても6Kgレールというのは遊園地の遊具のようなレールで驚きましたが,これでも軸重1Ton位は耐えられるのでしょうか. でも,これ位なら脱線しても人力で復旧できそうなので,却って実用的かもしれませんね.
ところで,先の斜里町立博物館の鉄道サイトの続きですが,国鉄根北線という斜里から標津へむかう路線が途中の越川までで挫折したという記録も興味深かったです.
以上です
北海道
KJN_Japon さま
貴重な情報提供をいただき、ありがとうございます。当サイトでは斜里線について、廃止を1953年と表記しておりますが、これは湯口徹氏の「失われた北海道の鉄道 簡易軌道の話(2)(1992)」によっています。ただし、当該資料内において、廃止年は「北海道殖民軌道各線別粁程表」によっているが、相当以前に停止・廃止当然となっているものも多いと思われる、とされています。斜里線については、おそらく行政手続き上の廃止が1953年、実体として運行を終了したのが1951年であったのではないか、と推察しますが、いかがでしょうか。軌条6kgは、当時の馬車軌道ではわりと多くあったと思われますが、ネット上では「我が国における森林鉄道の消長にみる国有林経営の展開過程に関する考察」という論文などで言及があるようです。(4.5kgという規格も使用されたそうです)。いずれにしても、現代ではまず目にすることのないか細いレールが使用されていたのでしょう。 想像力を掻き立てられる話であり、感慨深いです。
貴重な情報提供をいただき、ありがとうございます。当サイトでは斜里線について、廃止を1953年と表記しておりますが、これは湯口徹氏の「失われた北海道の鉄道 簡易軌道の話(2)(1992)」によっています。ただし、当該資料内において、廃止年は「北海道殖民軌道各線別粁程表」によっているが、相当以前に停止・廃止当然となっているものも多いと思われる、とされています。斜里線については、おそらく行政手続き上の廃止が1953年、実体として運行を終了したのが1951年であったのではないか、と推察しますが、いかがでしょうか。軌条6kgは、当時の馬車軌道ではわりと多くあったと思われますが、ネット上では「我が国における森林鉄道の消長にみる国有林経営の展開過程に関する考察」という論文などで言及があるようです。(4.5kgという規格も使用されたそうです)。いずれにしても、現代ではまず目にすることのないか細いレールが使用されていたのでしょう。 想像力を掻き立てられる話であり、感慨深いです。
神奈川
殖民軌道斜里線(#23)についてですが,下記の斜里町の博物館サイトによると廃止は1951年となっています. 私は,そのレールが6Kg/mという極く細い(小さい)ものだという事に驚きました.
https://shiretoko-museum.jpn.org/shizen_rekishi/tetsu/tetsu/
https://shiretoko-museum.jpn.org/shizen_rekishi/tetsu/tetsu/
北海道
M・Tさま
このたびは当ホームページをごらんいただき、また素敵な貨車のサイトをおしらせいただき、ありがとうございました。桂沢ダム建設事業線については、資料がほとんどなく、私もその存在を知ったのは最近のことです。貴重な体験談をおしらせいただき、とてもうれしく思います。この遺構に関する資料については、引き続き探してまいりたいと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
このたびは当ホームページをごらんいただき、また素敵な貨車のサイトをおしらせいただき、ありがとうございました。桂沢ダム建設事業線については、資料がほとんどなく、私もその存在を知ったのは最近のことです。貴重な体験談をおしらせいただき、とてもうれしく思います。この遺構に関する資料については、引き続き探してまいりたいと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
61歳 北海道
初めて投稿させていただきます。いつも貴サイト興味深く拝見しております。さて、幾春別付近の桂沢建設線の高架施設をアップされているのを拝見しまして、早速尋ねて来ました。小生、三笠に生まれ育って60年、故郷を離れてもちょくちょく帰郷しておりましたが、この遺構のことは寡聞にして知りませんでした。これを見て、長年の疑問が氷解しました。子供の時分、幾春別から汽車に乗った際、南側の本線脇に並走する赤錆びた側線が延々と続いていたのを記憶しておりました。恐らくはこの施設へ伸びていたものではなかったかと。長文にて失礼致しました。