北海道
誠文堂新光社から刊行された江上英樹・栗原景著「スイッチバック大全」にて、当HPの写真をご紹介いただいています。いままでにない視点で情報を集約した力作になっています。
北海道
浦臼町 札沼線メモリアルゾーン オープン記念(2024年5月17~19日)において、当HPの写真も掲載いただけることになりましたので、お知らせさせていただきます。
北海道
歴史文化研究所が発行している「月刊 小樽學」2024年2月号(通巻179号)にて、当HPの写真を紹介いただいておりますので、おしらせさせていただきます。
北海道
イカロス出版より、佐々木正巳・ 石川孝織 著「北海道の簡易軌道」が刊行されました。当ホームページからも、写真提供の協力をさせていただいています。かつて北海道に存在した全簡易軌道の停留所付・路線図、カラー写真による廃線跡の現況調査など、たいへん充実した内容になっておりますので、こちらでも、お知らせさせていただきます。
神奈川
急用のため再返信が遅れました.御免なさい.返信は読ませていただきました.誠に有り難うございます.
北海道
(続きです)
東洋経済誌では、田中角栄は国鉄線の維持を主張し、下記の論説を記したとしています。
@国鉄のローカル線問題は民間企業の尺度で測るべきではない。
A赤字線を廃止すれば、その地域の過疎化と都市部への人口流入による過密化が進む。
B特に豪雪地帯では、鉄道の方が道路より有用である。
C全国の赤字ローカル線の運営によって発生する赤字額は国鉄全体を揺るがすほどのものではなく許容範囲である。
今にして思えば、この指摘はまさに慧眼でした。ローカル線を、赤字を理由に廃止していった時代は、都市生活を基盤とする消費者の個が政策決定の上で最重要視されるようになった時代でもあります。その結果、地方のインフラは、都市生活者にとって利用価値はなくかつ負担にしかならないという理由で廃止されていきました。地方の実情も何もありません。その政策の延長上にある今日の社会は、少子化を経た人口減少の時代になりました。これは必然です。都市への人口集中は、様々な単価を高騰させました。あえてドライな書き方をすれば、土地・サービスの高騰は、バブル経済とともに、「労働者一人」を生産するコストを一気に増加させました。これは社会的なコストの増加であるとともに、当然のことながら、子どもを育てる家庭の負担をも増大させたことを意味します。「人を育てる」単価が、ことに高い東京都において、合計特殊出生率が全国平均を有意に大きく下回るのは当然のことで、ここにさらに全国民の負担を増やした上で、補助を行ったといても(現政府の方針ですね)、たいした改善効果のないことは明らかです。そのような、私の価値観でいえば、あやまった政策判断への転換点の象徴として、国鉄地方線の廃止があったことが、今になって明らかになってきたのだと思います。 Up 5/27 9:23
北海道
KJN Japonさま
ご指摘いただいたことについて、私も普段から思うところが多くあり、せっかくの機会ですので、触れさせていただきます。まず引用です。
「入植地は駅より三里も奥だという。入植者たちはそこで地元の人たちにひきとられて奥地に入ることになる。『これからさきはわれわれがお世話しますから』と地元の人たちが言うので、そこで別れることにしたのだが、奥地へはいるには森林軌道(注:殖民軌道のこと)があって、それに乗ることになる。(中略)駅の辺りは一面のススキ原である。その彼方に人びとは住んでいるという。このススキ原ももとは原始林であった。それをパルプ材として次第に奥地へ伐り進んで行き、その材木を運び出すために森林軌道を敷いた。そして伐採跡地へは次第に人が入って土地を拓き住みつくようになった。(中略)小さな機関車である。その後ろへ貨車とトロッコをいくつかつないだ。人びとは貨車に乗り荷物はトロッコにつけたが、貨車に乗り切れない人はトロッコに乗った。空は曇って暗く重い。雪になるかも知れぬ。汽車は動き出した。そして枯原の向こうに消えていった。見送る者は私と幌延の役場の吏員の二人だけであった。私は入植者の運命に空の暗さのようなものを感じずにはおれなかった。」
これは、民俗学者である宮本常氏の文章です。戦争直後、大阪府の職員だった著者は、戦災被災者たちに北海道の入植先を斡旋する事務を担当していたのですが、1945年の10月に、彼らに同行して、問寒別に着いており、その模様を書き記したものです。北海道の開拓の最前線を切り拓き、農業・酪農・鉱業の地として礎を築いた人々の多くは戦争罹災者や北関東東北地方の農家の次男、三男といった立場の人たちでした。彼らの労苦が、北海道を食料生産の拠点へと変え、戦後の殖産興業の礎となりました。宮本の文章は彼らの労苦と、そこに至る鉄道の重要性を端的に指摘した文章です。北海道に国鉄線として敷設された鉄道の多くは、彼ら開拓者の労苦をせめて国が交通の利便だけでも確保することによってバックアップする目的を持っていました。その重要性は、現地の厳しい自然環境を知る人には痛切に身に沁みるもので、単に赤字だからといって廃止することが適当かどうかの根源的な問いかけを含んでいます。国鉄線廃止の後、北海道では、離農が進み、かつて耕作地であったところの多くが、原野に戻っています。
神奈川
根北線の中断の残念な歴史については,いろいろ考えさせられます.
採算性は二の次にしても敷設しようとした人々の意志意欲についてです.
酔っ払いの戯言かもしれませんが,私は以前から日本の国教は仏教でも神道でもなくて,鉄教だと思っています. 鉄教とは鉄道教の事です. 鉄道を神様に近い存在として捉えているのではないかと思います. 勿論,鉄道が復旧したおよそ1900年以降の事ですが.
日本の移動手段としては,鉄道が敷設されるまでは,極く一部の例外を除けば,歩くしかなかった筈です. ひたすら歩くしかなかったのが鉄道に乗れば10倍以上の速度で,しかも楽に移動できるので,鉄道を神様のように崇め,民衆も役人も鉄道を絶対的な存在と認めたのではないかと思います.
辺境地である北海道の奥地の殖民にとって,鉄道のレールは自分達が札幌,そして中央と繋がっているという心の証だったのではないでしょうか. 全ての道はローマに通ずと同様に.
根北線などの沿線殖民は交通手段と心の繋がりを兼ねる鉄道に強い執着を持ったのでは
ないかと思います.
酔っ払いの戯言は以上です.
北海道
KJN_Japon さま
根北線(斜里-根室標津;予定)については、廃止区間にめだった遺構はないですが、未成線部分に、有名な「越川橋梁」が部分的ではありますが残っています。壮大なアーチの連続が美しいです。機会がありましたら、是非、ご覧いただければと存じます。
北海道
湯口徹氏の鉄道ファンに投稿された「簡易軌道のはなし」では下記の様に記述されています。“昭和21(1946)年11月3日、日本国憲法公布、従来の明治憲法に代わって地方自治が柱の一つとなり、翌22年12月31日には現在の建設、自治、農林各省をはじめ、警察庁、北海道開発庁などの省庁をひとまとめにした、極めて大きな権限と勢力を誇った内務省が解体された。(中略)それ(昭和25年の北海道開発法制定)によって国の機関である北海道開発局が設置されたのは、田中知事再選の直後であった。同局の設置の理由がそれだけではないのも確かだが、決して無縁ではない。沖縄もほぼ同じで、選挙に際し着実に票と結びつく建設事業の大部分を、革新知事から取り上げたという政治的背景が無視できないであろう。これによって、従来の殖民軌道も「簡易軌道」と呼称を変えて農林省所管となり、改良や新設工事はすべて国直轄で北海道開発局が施工することになる。施設・車両などは北海道知事が国の代行機関として管理するが、昭和28年以降地元町村長と委託契約を、財産についてが財産管理協定を締結し、それぞれ地元町村営軌道として新発足することになったのである。(中略)国有財産である車両や施設の維持に対しては、土地改良法に基づく3/4補助制度が実施された。これは北海道知事を通じて農林省が行なうものだが、改良工事が実施された部分は開発局所管であり、新設された部分は補助対象にはならない。”

1951年08月31日の官報では、総理府令第三十七号 北海道開発法(昭和二十五年法律第百二十六号)第十四條、第十五條及び第十六條の規定に基き、北海道開発局組織規程を次のとおり定める。昭和二十六年八月三十一日 内閣総理大臣 吉田茂 
第十一條 開拓課においては、左の事務をつかさどる。
二 簡易軌道建設工事の設計及び実施に関すること。
とあります。

いずれにしても、国の管理下であった時代ですので、1953年の廃止も届け出ではなく、告示による公布によったと思われます。ただ、ご指摘の通り、実体としての廃止(運行されなくなった時期)は、それより早い時期であったというのが、おそらく正しいのではないかと考えています。