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急行「大雪」崩れの124レにつきまして
仙コリ様、クモイ103様

貴重な情報をお教えいただき、感謝いたします。
私が閲覧した記述は、「ARC資料館」からになります。
以下がその内容でした。

S43.10.1〜S45.9.30 123レ〜517レ〜1527レ、1528レ〜518レ〜124レ
函館−網走(下り6号、上り6号)123レ〜517レ〜1527レ、1528レ〜518レ〜124レ
←函館
マニ60荷物(1)+マニ60荷物(2)+スユニ61荷郵+オハネフ12(1)+オハネ12(2)+オロハネ10(3)+スロ52(4)+オハ+オハフ+スハフ44(5)+スハ45(6)+スハ45(7)+スハ45(8)+スハフ44(9)+スハフ(10)+オハ+オハフ

※荷物車(1)は函館−長万部、上りのみ
※荷物車(2)、1〜4号車は札幌−網走
※荷物・郵便車は函館−釧路
※10号車は小樽−北見
※4号車のあとの号車番号のない2両は函館−森、上りのみ連結。
※10号車のあとの号車番号のない2両は函館−長万部
※函館−札幌、北見−網走間は普通列車。(123レ、1527レ、1528レ、124レ)
※4号車はスロ54のことがある。
※下りは函館〜D51〜小樽築港〜ED76〜滝川〜C57〜旭川〜D51〜上川〜D51、DD51〜遠軽〜D51、9600〜北見〜C58〜網走
※上りは函館〜D51〜小樽〜ED76〜滝川〜D51〜上川〜D51、DD51〜遠軽〜D51、9600〜北見〜C58〜網走

私の解釈不足もありまして、お手数をおかけしました。

そういえば同時期に旭川駅で撮影した被写体に、
C55がマニを1両連結して到着番線の隣ホームで、稚内からの322レ到着待ちをしている様子を確認しています。
これは322レの前にマニを1両連結して機関車交換後、滝川まで行く前の様子でした。

小沢で撮影しました124レの画像がアップできましたらいたします。
ありがとうございました。
(ID:qaeSqm)
仙コリ
Re3:急行「大雪」崩れの124レにつきまして
クモイ103様
いつもフォローしていただきまして、ありがとうございます。
いつもながら、私の言葉足らずで申し訳ありません。

ただ、私の解釈は少し違っていまして、studio4310様の文章中に「スユニは
一度編成から外して再度マニの間に挟むように連結していたのでしょうか?」
とあるので、「再度マニの間に挟む」というところから、
1、駅到着後、スユニ+寝台車+グリーン車を引き上げる。
2、スユニと寝台車等を分割し、スユニのみを編成に戻す。
3、再度機関車単体で引き揚げ、マニを連結する。
4、マニを伴った機関車が、スユニの前に連結する。
といったような同じ駅での3度手間?と考えているのかと思った次第です。

その点から、マニとスユニはどちらも全区間通しの運用である。
増結のマニについても、寝台車等を解結する駅とは異なっているので、一つの
駅で3度手間?がかかるわけではないと書き込んだ次第です。

もっとも違った視点で、スユニと寝台車等を分割したあと、そこにマニを連結
して、スユニ+マニ+普通車編成としたほうが簡単なのではと考えられている
可能性があるので、その場合は、各駅における荷扱いの場所が統一されている
ため、荷物車の連結場所は決められていて、北海道の場合は最も函館寄りに
荷物車を連結するのがルールとなっていると答えるべきでした。

studio4310様の疑問点を勝手に解釈してしまったため、言葉足らずの中途
半端な答えとなってしまい、申し訳ありませんでした。

改めて、studio4310様の疑問点を書き込みしていただければ幸いです。
(ID:A7IzXv)
クモイ103
Re2: 急行「大雪」崩れの124レにつきまして
横から失礼します。
仙コリ様の参照された資料を私も確認しました。
124レの編成は仙コリ様のおっしゃる通りで、studio4310様が小沢でご覧になったマニとスユニは、いずれも網走から連結されてきたと思われます。

ですがそもそも、studio4310様が持たれた疑問は、
「札幌で寝台車を切り離す際、それより前に連結されたスユニも一緒に引上げなければならない筈なのに、その後またスユニを編成に戻すという二度手間をやったのか?」
と私は解釈しました。そうではありませんか?

だとすれば、それに対する答えは、
「そのような入換作業は、かつては全国どこでも普通に行われていました。」
となります。
こうした編成途中からの「中抜き」や「差し込み」はもちろん手間がかかるので、時代が下るにつれてやらずに済む方向へシフトしていったと思われますが、逆に時代を遡れば、機関車を使って客車や貨車を押したり引いたり、切ったりつないだりというのは日常茶飯事でしたから、その程度の作業は日常のルーチンの何でも無い一コマだったと思われます。
(ID:1oZdnv)
仙コリ
Re:急行「大雪」崩れの124レにつきまして
studio4310様

ヨンサントオ後の124レの編成についてとのことで、「ヨンサントオ国鉄白紙
ダイヤ改正 全国版優等列車編成順序表」(復刻版:ネコ・パブリッシング)
によると、124レの小沢駅付近での編成は機関車(D51)次位から
マニ 網走→函館:東航2運用
スユニ 網走→函館:旭郵71運用
スハフ+スハ+スハ+スハ+スハフ 網走→函館:函3運用
スハフ 北見→倶知安:旭附171運用
となっているので、その時点でのマニ・スユニは2両とも網走→函館間通し
運用の車両であったようです。

ちなみに長万部からさらに前位(機関車次位)にマニが1両(長万部→函館
:旭荷52運用)増結されたようなので、この車両がどこかの時点で小樽から
連結されることになったのか?そうであっても寝台車・グリーン車の運用は
札幌までのようですので、寝台車等の解結とマニの増結は異なる駅のよう
ですので、問題ないと思われます。

あくまでもヨンサントオ改正時点での運用ですが、studio4310様が撮影
された半年後までに運用が変わっている可能性は少なく、マニが1両との
事なので、上記のように小沢駅付近での編成のマニ+スユニは通し運用の
車両であったと思われます。

参考になりましたら幸いです。
(ID:A7IzXv)
急行「大雪」崩れの124レにつきまして
ヨンサントオ後、函館本線山線の撮影に数回訪れて、小沢付近で撮影をしたときのネガをスキャンして不思議に思ったことがあります。
急行「大雪」崩れの124レを1969.4.1に撮影したネガを見ると、網走―函館間の通し運転の6両普通車の前に、D51を先頭にマニ+スユニが連結されていました。
マニは小樽→函館、スユニは網走→函館間という記述を見つけました。
中間の寝台車やグリーン車を抜いた後に、マニを連結するのはわかりますが、スユニは一度編成から外して再度マニの間に挟むように連結していたのでしょうか?
どなたか情報をお持ちの方、教えていただければ幸いです。
(ID:h5yxvv)
クモイ103
Re7: 客車急行越後について
仙コリ様

ナハネ11 9とスロ51 6については気付きませんでした。確かにおかしいですね。
もう一つ、日付も違っている可能性が考えられます。
「越後」のマロネ29は36-10改正以前は尾久持ちの附属編成扱いだったようなので、その時期かもしれません。
いろいろ謎の多い編成記録ですね…
(ID:1oZdnv)
仙コリ
Re6:客車急行越後について
クモイ103様
フォローしていただきましてありがとうございます。

ピク誌掲載の昭和37年の編成記録でのマロネ29 124の件ですが、昭和36年
10月改正時点で新ニイ配置となっているのは確実であるようなので、編成記録
のどこかが間違っているのも確実なので、「東オク」配置の点であるのか?
記録年月日の間違いなのか?と思いまして、参考までに編成記録の他の車両
についての配置記録を調べてみると、数点の間違いを発見しました。

6号車のスロ51ですが、スロ51 6は昭和26年度中に北海道向けのスロ52
になっており、編成記録の直近の昭和37年10月時点での新ニイ配置の
スロ51を調べてみると、39・51・52・56・57の5両が該当するので、
下一桁が同一となる56の記載(転記?)ミスではないかと思います。

7号車のナハネ11ですが、ナハネ11 9 の配置歴を調べると昭和33年時点
では東シナ、昭和37年時点で大ムコとなっているので、こちらも昭和37年
10月時点での新ニイ配置のナハネ11を調べてみると、41・42・43・68・69
の5両が該当するので、こちらも下一桁が同一となる69の記載(転記?)
ミスではないかと思います。

以上のとおり、編成記録上に記載ミスが数点あるため、マロネ29の車番又は
配置についても、記載ミスが考えられるのではないかと思います。
(ID:A7IzXv)
クモイ103
Re5: 客車急行越後について
皆様

マロネ29の動向には興味があって調査していますが、まだ断片的な情報だけです。
但し、新ニイに絡むものは大体把握できています。

昭和36年11月17日総裁達第634号(客車の所属変更)
関東支社→新潟支社 マロネ29 123・124
西部支社→新潟支社 マロネ29 25
※ 昭和36年10月時刻改正に伴う移動です。

昭和37年9月5日総裁達第401号(客車の所属変更)
西部支社→新潟支社 マロネ29 108
※ この時同時にオハシ30が新潟支社へ移動しているので、
  6月の新潟電化に対応した移動の可能性があります。

昭和38年1月8日総裁達第7号(客車の用途廃止)
新潟支社 マロネ29 25(新津工場で解体)

昭和38年8月10日総裁達第399号(客車の用途廃止)
新潟支社 マロネ29 108・123・124(新津工場で解体)

つまり、36-10改正に伴ってマロネ29 25・123・124の3両が新潟に転入し、
その後108が加わり、入れ替わりで25が廃車、
そして38年の夏に108・123・124が廃車されて消滅 という流れでした。

なお、仙コリ様が引用されたピク誌掲載の昭和37年の編成記録で
マロネ29 124の所属が東オクとなっている件ですが、
上記の通り、公報の流れを追えばこの時同車は新ニイにいた筈で、
また36-10現在の東オク配置表には記載がありませんので、
編成記録の情報は不思議です。
(ID:1oZdnv)
仙コリ
Re4:客車急行越後について
ナロ2051様
竹中@ノーブルジョーカー様

「越後」及び「天の川」に使用された車両について、オロネ10について
ですが、68〜70の3両が1963/5/28付けで新潟に配置されているので、
1963/6/1運転開始の急行「天の川」用に充当されたのは間違いなく、
また、かなり後にはなりますが1976/8/13の「天の川」のオロネ10には
2084が充当されており、その他の車両についてもすべて電暖車である
2000番台が充当されております。

そこで、新潟への配置歴のあるオロネ10の68〜70及び2083〜2085の配置
歴を調べてみると、
オロネ10 68〜70 1963/5/28 新潟に新製配置
          1964/4/1時点では名ナコに配置(転属月日は不明)
オロネ10 2083〜2085 1963/11/28 新潟に新製配置
となっておりまして、このことから「天の川」用としては、本来は最初から
電暖車を用意すべきところが間に合わず、一時的に68〜70を充当しておき、
冬季にむけて電暖車である2083〜2085を投入し、それまでの半年間に使用
していた68〜70を名古屋に転属させたのではないかと思われます。

よって、68〜70も2083〜2085も「天の川」用(入れ替わり)であったと
思われます。

マロネ29については、1958/10/1時点での配置が108は門ハイ、123と124
については東オクとなっており、1962/10/1時点では3両とも新ニイと
なっています。
この間の配置歴、転属日の情報を持ち合わせてないので、新潟配置となった
のがいつかはわからないのですが、前述の1962/7/28の編成記録に間違いが
なければ、1962年の7/28から10/1の間に新潟に転属となったものであると
思われます。

詳しい事情をお知りの方がいらっしゃいましたらフォローをお願いします。
(ID:A7IzXv)
仙コリ様竹中@ノーブルジョーカー様
客車列車越後について編成入りの返答ありがとうございました。編成を
見て感じたのですが、準急にしては
かなり良い車両を使用している事、
高い料金が必要なCロネが戦前製とは何とも言えません。もう一つ気になるのはマロネ29の所属が東オクになっているのですが、P誌別冊に
よれば63年8月10日付でマロネ29
108.123.124が新潟で廃車になっており、63年6月に天の川が新設された時期と一致しており、新ニイの
表記変更が遅れていたのでしょうか
 天の川用のオロネ10の新潟の配置も新設の時期と一致するのですが、
P誌別冊のオロネ10の車歴表を見ると、63年11月に2083.2084.2085
3両が新潟に新製配置されていますが、使用列車は何でしょうか?
 新潟で関係有るオロネ10の使用列車は天の川の他日本海(当時)ですが
日本海はすでにオロネ10になっており、受持は宮原のはずです。
 細かな疑問ばかり挙げましたが
ご存知の方ご教示ください。
(ID:5ZWAQ7)