過去ログ40
2025/6/22 21:36
クモイ103Re2: 【訂正】音戸のマロネ41からオロネ10への置き換えについて訂正の自己レスです。
「中セキ」「中ヒロ」と書きましたが、それぞれ「広セキ」「広ヒロ」の誤りでした。
昭和45年8月20日の工達第3号で塗色基準規程が改正され、中国支社の「中」が広島鉄道管理局の「広」に変更されています。
申し訳ありませんでした。
変に略号で書かず普通に駅名で書けば良かったですね…
クモイ103Re: 音戸のマロネ41からオロネ10への置き換えについてナロ2051 様
その辺りの経緯について、マロネ41の歴史という切り口から追ったことがあります。
45-10改正の前、301/302[音戸1-2号]に使用される中セキのマロネ41は4と5の2両のみでしたが、他に1両だけオロネ10 41が配置され、これが予備車と考えられます。
また、[安芸]に使用される中ヒロのオロネ10は2両×3組+予備1両の合計7両(4、5、6、24、25、26、31)でした。
45-10改正でのこれらオロネ10の動きは次の通りです。
・オロネ10 4、5、6 中ヒロ→大ムコ
・オロネ10 24、25、26 中ヒロ→中セキ
・オロネ10 31 中ヒロ→大ミハ
・オロネ10 41 中セキ→大ミハ
大ムコでは3両を迎え、205/206[日南1-3号]の大分回転編成に入っていたマロネ41を置き換えました。
中セキではやはり3両を迎え、301/302[音戸1-2号]のマロネ41を置き換えました。
大ミハでは2両を迎え、101/102[銀河1-1号]で最後の活躍をしていたマロネ40を置き換えました。
マロネ41の運用はこの改正で大きく減少し廃車も発生、そして新幹線岡山開業の47-3改正でついに引退することとなります。
事業用客車好き救援客車、配給客車についての話題皆様、ご無沙汰しております。
最近は客車以外の車両の研究調査が多くて客車関係はあまり研究調査しておりませんが、その中でも白帯車及び事業用代用車の救援客車や配給客車は私も興味あるのですが、なかなか最近写真や車番等記録資料がインターネットや書籍にも見つからない為、情報収集に困っております。もし救援客車配給客車について既に他の鉄道書籍やインターネット検索で掲載された以外の分でこの掲示板の皆様が撮影している車両の写真が1枚でもあれば是非ご投稿をお願い致します。再度申し上げますが私は2002年生まれで地元の山口県でも救援客車配給客車を見かけた事や撮影してもいない中のお若い鉄道ファンですので…
ナロ2051音戸のマロネ41からオロネ10への置き換えについて表題の件、45年10月改正でマロネ
41からオロネ10に置き換えられましたが、オロネ10は度の様に捻出したのでしょうか?45年10月改正で
急行安芸が下関あさかぜに格上げされ、捻出されたオロネ10は銀河の
マロネ40.41の置き換えに転用されました。広島配置のオロネ10 6両
(予備車も含めて多分)のうち4両を
宮原に転属させ、残った2両を下関
に転属させたのでしょうか?
(宮原は複数の列車を受け持っており予備車の共用は可能と思われる)
また下関配置のマロネ41は2両で
検査時は竹下、広島などの近隣?
の区から借用していたのでしょうか
スポックRe6: 門司での入れ換えについてクモイ103 様
何度もご教示いただき有り難うございます。
てっきり、食堂車も運用数を減らすため、当日の「阿蘇」で戻しているのかと思いました。
クモイ103Re5: 門司での入れ換えについてスポック様
史実として熊本で[阿蘇]と[天草]は入れ違いに折り返していたのですから、時間は十分とれていた筈です。
食堂車については、熊本でまる1日滞泊し、翌日折返す3組運用でした。
36-10改正時点の名古屋の食堂車配置は、
マシ49 1、2、3
マシ29 101
スシ48 2
の合計5両でした。
[阿蘇]の所定使用車はマシ49ですが、両数がぎりぎりのなので、検査時は他の2両のいずれかが代走に入ったはずです。
マシ29はマシ49と同じく冷房付きですが、車内設備が一段古いもので当時の感覚的には若干見劣りしたと思われます。
スシ48はマシ49と同等の車内設備ですが、非冷房です。
このスシ48 2は、37年に電気暖房取付改造を受けてスシ48 2002となり青森へ転属、37-10改正の高萩電化でEF80牽引となった常磐急行に活躍することになります。これと入れ替わりにそれまで青森にいたスシ28 104が名古屋へ移ってきますが、これは非冷房で車内設備も古いですから、実質的には保留車だったろうと私は思っています。
39-10改正で[阿蘇]の食堂車は廃止され、マシ49の3両は名古屋配置のまま[さつま]の名古屋−門司間に連結されるようになります。運用組数が2組に減り、マシ49形だけで検査予備もまかなえるようになりました。
スポックRe4: 門司での入れ換えについてクモイ103様
有り難うございます。それでも熊本での折り返しは時間的に厳しいのでは?
「天草」から「阿蘇」へは3時間半弱しかなく、「阿蘇」から「阿蘇」への食堂車の受け渡しが必要ですよね。食堂車の受け渡しは2時間ほどしかなく、清掃などの準備作業が大変そうです。
クモイ103Re3: 門司での入れ換えについてスポック様
[さつま]に食堂車マシ49が連結されたのは、東海道新幹線が開通に伴う全国白紙改正があった昭和39(1964)年10月1日から翌年10月改正前までの1年間だけでした。本掲示板の去年のやりとりでは、その点に言及されていませんでしたね。
名古屋−熊本間急行[阿蘇]と京都−熊本間急行[天草]の基本編成が共通運用されたのは、[阿蘇]の運転時刻の関係で熊本での折返し時間がとれないためです。
[阿蘇]を単独で運用しようとすると、熊本に到着した編成を当日の上りに充当できず、一晩寝かせることになり、3組の客車編成が必要になってしまいます。
これを下り[阿蘇]→上り[天草]→下り[天草]→上り[阿蘇]と運用すれば、熊本でスムーズに折り返せるので、2往復の列車を4組の編成で回すことができます。
従って[天草]の基本編成も当然名古屋の受け持ちで、4日周期で自区に帰ってくる運用となります。
かつていろいろな長距離列車が走っていた時代、このような共通運用による編成数の節約はあちこちで行われていました。
スポックRe2: 門司での入れ換えについてクモイ103様
手元にあるのは時刻表63年11月号です。巻末の方にある編成表で見る限り、「さつま」は
https://i.imgur.com/QJsNu2m.pngとなっています。61年10月号も手元にありますが、先頭の2・荷と郵の位置が入れ替わってるのと、12号車までで10−12号車は名古屋−門司という相違ぐらいですね。61年でも6号車は欠番ですし。
クモイ103Re: 門司での入れ換えについてスポック様
ご指摘の通り14号車の入換は高千穂のEF30が行うのが自然で、わざわざ他の入換機を持ってくることはまず無いでしょう。
@208レ[天草]が到着、すぐに牽引機(おそらくC57)が逃げる
AEF30が来て連結
B14号車を切り離して引上げ
C36レ[高千穂](門司までの牽引機は既に逃げている)に連結
Dブレーキ貫通試験
…という一連の作業に対して、7分間はあまり余裕がない気がします。
おそらく何人もの地上係員と乗務員が連携し合って、入換信号機や転轍機の操作と確認、そして連結器とブレーキホースの接続確認、などを矢継ぎ早にこなしていたと想像すると、さすが門司駅は運転上の大拠点と感じ入る次第です。
手元に37年11月号(37-10改正時)があるので確認すると、確かに高千穂の発車時刻が2分繰り下がっていますね。36-10改正時に実施できると判断して設定したダイヤが、やってみると現場的にきつくて見直したのではないか…とこれは私の妄想です。
別件のことで、スポック様お手持ちの時刻表というのは何年何月号でしょうか?