駒形神社掲示板

過去ログ42 2008/1/28 11:40

▼ピーチソーダ
長い目でみれば、奥州藤原氏が消滅した方が中央との戦乱はなくなるのであって未来の戦死者もなくなります。神様も情を捨てて郷土を見守るに徹していたと思います。
1/28 11:40

▼禰宜
岩手富士様、ピーチソーダ様
よく言ったほうの「見守る」です。
話は変わりますが、駒形神社神主のつとめは、地域の安寧を神に祈ることと、崇敬者の祈りを神にささげること。
アテルイおよび朝廷から崇敬されていた当時の駒形神社神主は、おそらく互いを尊重しあえるように祈るしかなかったと思います。

「国家対地域」神社にも残されています。皇室の祖先神を祀る事と、地域の信仰を大切にすること。「対」ではなくて、どちらかというと「共同」もしくは「協調」。
政治的にははっきりさせなければならない分野なのかもしれませんので、敵対することもあるやも知れません。ただ、先人の残してくれた国(領土)、言葉、血族は、何としても守らなければならないという意識を国民一人ひとりが持てば、「郷土」にしても「国家」にしても誇りや使命がわいてくるとおもうのですが。
一個人のわがままで政治が混乱することが一番最悪なことです。後は後日・・。
1/27 23:17
HP

▼ピーチソーダ
東條英機、石田三成、アテルイは神様に導かれた英雄だと思う。何百年もの平和の為に。神様は人々に間違った道を示すわけがない。故に今の世の制度は、一応は正しいという事になる。
1/21 14:30

▼ピーチソーダ
すぐさま朝廷軍に従った方が良い場合、地方の誰かに反乱を起こさして地方を壊さなければならない。神様の導きの後はたいがいは平和が訪れる。
1/21 14:26

▼岩手富士
禰宜さん

 よく言えば「見守る」、悪く言えば「日和見」ですかね。
 道鏡事件ではないけれど、「おみくじ」や公開の吉凶占いならともかく、「神社のお告げ」が本当に神託なのか、それとも神主の意向なのかは神社の外部の人間には判断のしようがないので、とにかく一括して「神社のお告げ」として受け取るほかない。だから当方も最初の問題提起で「神社」の態度を問うたけれど「祭神」或いは「神主」については問うていない。
 「国家対地域」「国家対郷土」は当方が常々考えていることです。先の教育基本法論議に際して「郷土を愛することと国を愛する事は別」と論じて改定に反対したのは河北新報。要するに「国家によって郷土が侵された」と言う論調は「アテルイ史観」や小澤一郎の言説に通ずる。ケセン語の山浦某も「大和帝国が山を越えて侵略してきた」と主張する手合い。国家と郷土が対立する時、人はどちらに味方すべきなのか。古代から近代まで、胆江は中央との対立衝突の事例に事欠かない。それこそ山浦某はカトリックだから、日本国よりもバチカンの言うことを聞くのでしょうな。

 黒石寺蘇民祭は寺で行われているから仏事に思えるけれど、江刺市や花巻市の蘇民祭は神社で行われている。事典を繙けば、蘇民将来が助けた牛頭天王自体が素戔嗚尊と同一視されたり、インド由来の仏教の神とされたりで実にややこしい。これが神仏習合と言うものか。
1/20 16:59

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