過去ログ16 2023/11/8 12:37

仙コリ
Re2:50系の組成について
えび満月様

50系の組成について、さらに調査したところ、マニ50を含む編成では
ありませんが、編成の両端がオハフ50とはなっていない事例を発見
いたしました。
昭和61年時点の客車運用表によりますと、

「秋1」運用(オハフ50-オハ50-オハ50)山形運転区

1日目
奥羽本線423レ(山形→福島)429レ(福島→米沢)1429レ(米沢→山形)
    2429レ(山形→新庄)447レ(新庄→秋田)
2日目
羽越線838レ(秋田→新津)
3日目
羽越本線829レ(新津→酒田)831レ(酒田→秋田)
4日目
奥羽本線629レ(秋田→青森)632レ(青森→弘前)637レ(弘前→青森)
    3638レ(青森→弘前)641レ(弘前→青森)
5日目
奥羽本線624レ(青森→弘前)
6日目
奥羽本線621レ(弘前→青森)626レ(青森→弘前)633レ(弘前→青森)
    636レ(青森→秋田)
7日目
奥羽本線1633レ(秋田→大館)
8日目
奥羽本線623レ(大館→青森)640レ(青森→大館)
9日目
奥羽本線625レ(大館→青森)628レ(青森→弘前)631レ(青森→弘前)
    3640レ(青森→弘前)
10日目
奥羽本線1432レ(弘前→秋田)
11日目
奥羽本線2432レ(秋田→横手)445レ(横手→秋田)
12日目
奥羽本線1420レ(秋田→新庄)
13日目
奥羽本線1440レ(新庄→山形)


「秋3」運用(オハフ50-オハ50-オハ50)秋田運転区

1日目
奥羽本線1637レ(秋田→大館)
2日目
奥羽本線623レ(大館→青森)640レ(青森→弘前)
3日目
奥羽本線3627レ(弘前→青森)630レ(青森→弘前)3637レ(弘前→青森)
4日目
奥羽本線3624レ(青森→弘前)627レ(弘前→青森)634レ(青森→弘前)
    635レ(弘前→青森)638レ(青森→弘前)639レ(弘前→青森)
    642レ(青森→弘前)643レ(弘前→青森)
5日目
奥羽本線624レ(青森→弘前)1630レ(弘前→秋田)
6日目
奥羽本線1631レ(秋田→八郎潟)2620レ(八郎潟→秋田)
1430レ(秋田→横手)445レ(横手→秋田)

といった2つの運用で、方端だけがオハフ50となり、もう一方はオハ50が
編成端となる編成だったようで、主に奥羽本線(青森−弘前)を中心と
して運用されていたようです。

お持ちのマニ50は余ってしまいますが、オハフ50が1両しか入手出来な
かった場合は、このような編成実例もあったという事での組成はあり
という事になります。

参考資料:国鉄気動車客車情報 61・11・1改正号(ジェー・アール・アール)


仙コリ
Re:50系の組成について
えび満月様

ご質問の50系の組成についてですが、
手持ちの資料から50系客車を中心とした客車編成記録として、
1980年(昭和55年)4月1日前後の編成記録を約140列車、
1983年(昭和58年)4月1日前後の編成記録を約240列車確認しましたが、
座席車のみの編成が大部分であり、荷物車等も50系客車に限定すると、
1980年においてはスユニ50を連結した列車は11列車ありましたが、
マニ50を連結した列車は皆無であり、1983年においてはスユニ50を
連結した列車が9列車、マニ50を連結した列車は7列車ありました。

ただ、マニ50を連結した7列車のうち5列車は、マニ50とスユニ50を両方
連結した編成であり、50系座席車とマニ50のみで組成された列車は
2列車のみでした。

2列車とも山陰本線の列車(825レ・830レ)で、それぞれの編成は

825レ(益田→下関)1983年4月1日
 DD51-オハ46-オハフ41-マニ50-オハフ50-オハ50-オハ50-オハフ50

830レ(下関→益田)1983年4月1日
 DD51-オハフ50-オハ50-オハ50-オハフ50-マニ50

となっており、825レのオハ46とオハフ41は長門市からの増結車
となっています。

その他の50系客車の編成をみても、座席車編成の両端は、必ずオハフ50
となっていますので、ご質問の(機関車-オハフ50-オハ50-オハ50-マニ50)
といった組成は、現実世界の運行においては存在していなかった可能性が
高いと思われます。

参考資料
・国鉄客車編成表 80年版
・国鉄気動車・客車編成表 83年版
・国鉄客車ガイド
(すべて ジェー・アール・アール 編集・発行)


えび満月
50系の組成について
昨日、KATO京都店でオハ50とマニ50を1両ずつ連れて帰ったのですが、肝心のオハフ50は売り切れていたので、そういえば家に古いTOMIXのオハフ50がいたようなと思い、気にせず帰ったところ、在来車もオハ50だったので、少し衝撃をうけてました
まあ、何を言いたいのかと言うと、編成を組ませる時、(機関車-オハフ50-オハ50-オハ50-マニ50)といった組成は、現実世界の運行において成立できるのかなといった次第です
オハフを連れて帰るのが1両だけなのか、2両なのか、ご教授いただけますと幸いでございます。


ガンバレール9
博多あさかぜに4日間連結された銀帯オハネ24 700について
東京発1986年11月1〜4日までのわずか4日間、博多あさかぜが富士から移行したカルテット銀帯車を連結していたようです。同4日の東京駅発まではオシ24も白帯で連結されていた可能性が高いです。同5日の東京駅発からは、金帯化改造のためオシ24もカルテットもはずされ編成短縮、再連結(金帯化)は12月末だったようです。

当時の写真、または編成記録があればぜひ見てみたい、移行期ならではの編成です。

HP

フィリッペ
Re: マイテ49-2(旧スイテ49-2) ベンチレータについて
クモイ103様
はじめまして、ご回答ありがとうございました。
やはり、ベンチレータの撤去は冷房化ではなく、青大将色に
変更になった時が怪しいですね。

ありがとうございました。


クモイ103
Re: マイテ49-2(旧スイテ49-2) ベンチレータについて
フィリッペ様 はじめまして。
確実な情報は残念ながら持っていないので、手元の写真を繰ってみました。
ぶどう色1号時代の1956年5月にはベンチレーターがあり、
青大将化された1957年10月14日には撤去済みでした。
なので、青大将への塗色変更のタイミングが怪しいです。
(個人的な推測であり確定情報ではありません)


フィリッペ
マイテ49-2(旧スイテ49-2) ベンチレータについて
初めて投稿させて頂きました。客車に詳しい皆さんにお聞きします。
マイテ49-2(旧スイテ49-2)のモデル再現において、ベンチレータが
撤去された姿をお見掛けします。
記事によっては冷房化と同時にベンチレータが撤去された旨、記述もあります。
ただ、手元にあるRM LIBRARY 200「日本の展望客車(上)」によると、マイテ49-2の冷房化は1946年ですが、1950年の写真をではまだベンチレータは存置されている様です。
その後、マロテ49-2に改称され、1961年のマロテ49-2の写真だとベンチレーターは撤去されている様です。
ベンチレータの撤去と冷房化は同時ではないと思われますが、具体的には いつベンチレータは撤去されたのでしょうか?
ご存じであればご教示下さいませ。


仙コリ
Re4:風立ちぬの客車
国鉄マニアのモデラー様

本日、ようやく「風立ちぬ」のDVDを見てみました。
そこから例の客車についての特徴をあげてみると、
三等車
 木製車体
 等級帯あり(三等:赤)
 ダブルルーフ
 オープンデッキ(金属製手すり:貫通路扉あり)
 クロスシート(緑色モケット背ずり付)
 2軸ボギー台車(イコライザー式)
 ねじ式連結器(2本バッファー方式)
二等車
 木製車体
 等級帯あり(二等:青)
 ダブルルーフ
 オープンデッキ(手摺りは木製衝立状:貫通路扉あり)
 クロスシート(青色?モケット背ずり付)
 ねじ式連結器(2本バッファー方式)
といったところで、モデルとなった形式を推測するには、いろいろと問題が…

国有鉄道基本形の客車に限定すると、三等車のシート背ずりにモケットが張られるのは、
昭和10年製造のスハ32形式の中期製造車以降なので、木製客車の時代にはモケットは
張られていなかったはず?

昨日、私がモデルではないかと書き込んだ明治村の客車はボギー台車ではなく2軸車であり
座席シートもロングシートとなっています。

といったことで、やはり特定のモデルとなった形式があるわけではないのではないか?
というのが、私の推測となります。
ただし、正直なところ木製客車についての知識はほとんどなく、ましてや国有化前の
私鉄からの引継ぎ車両(いわゆる雑型客車)は未知の世界なので、どなたか詳しい方の
フォローを期待いたします。


仙コリ
Re3:風立ちぬの客車
国鉄マニアのモデラー様

奇しくも、今日は関東大震災から100周年だそうですね。

まず、大前提としてアニメの話なので、公式にどの形式をモデルにしたという情報が無い限り、
あくまでもモデルとした形式を推測する事しか出来ません。

「牽引機については形式が6700形とわかりました」との事なので、ネット上でスタジオジブリ
責任編集の「ジ・アート・オブ 風立ちぬ」に関する記事にたどり着いたものと思われますが、
客車については同様の記事を探し出す事が出来ませんでした。

関東大震災の発生日が、ちょうど100年前の1923年(大正12年)9月1日なので、当時の国有鉄道の
主力客車は1920年から製造されていたナハ22000形(昭和3年以降の形式呼称:以下同様)か、
1910年から製造されていたホハ12000形だと思われますが、木造客車でダブルルーフといった点は
合致しますが、アニメにおいて特徴的なオープンデッキではありません。

当時、幹線においてオープンデッキの客車が存在していたかどうかがわかりませんが、明治後期
1906年(明治39年)に鉄道国有法が施行された後に製造されたオープンデッキの客車は無い
ものと思われます。

あとは国有化前の私鉄時代からの引継ぎ車両たちですが、国有化から20年近く経過している
時期であり、大正後期でもある1923年にオープンデッキの客車だけで編成された列車が存在
していたかどうかが疑問です。

といったところから推測ですが、スタジオジブリの絵作りのこだわりから、時代考証よりも
客車のディティールに重きを置いて、現存していないナハ22000形等ではなく、現存している
木造客車でありオープンデッキの客車である明治村の客車などをモデルにしたのでは
ないでしょうか?
走行中に帽子を飛ばされるという重要な場面の演出にはオープンデッキが必須でしょうし!
といったところで、あくまでも私の推測ですので、どなたか詳しい事情をお知りの方が
いらっしゃいましたらフォローしていただければ幸いです。


国鉄マニアのモデラー
Re2:風立ちぬの客車
すみません、言葉不足でしたね…。
そうです、そちらの編成に使われている客車についてです。ちなみに牽引機については形式が6700形とわかりましたので客車の形式について教えていただけませんか?


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