過去ログ24 2024/4/21 22:09

ナロ2051
クモイ103様
 恐れ入りました。


ナロ2051
さんべのスハ44について
 表記の件、P誌719号(スハ43系特集U)によれば43年10月改正から50年3月改正まで米子に2両配置のスハ44が使用されていた様です。ただ2両のみの配置だった為、予備車は無く鉄爺さまが乗車された時は
検査中でボックスシート車(多分オハ47?)だったのだと思われます。
または50年3月改正迄8カ月しか無く、検査期限もしくは状態が良く無い為既に運用から外されていた可能性も有るかもしれません。
 話は逸れますが、20系客車のファンとして、マヤ20の撮影に行かれたとは時羨ましい限りです。その
マヤ20が運用を離脱して来年で50年になります。


クモイ103
Re: 「急行さんべ」にかかるスハ44の運用
鉄爺様

夜行の[さんべ3号]にスハ44は使用されていました。
43-10改正時の主要客車列車編成順序表を見ると、1号車オハネフ12+2号車スロ54(以上は竹下持ちの附属編成)に続く米子持ちの基本編成の最初に、3号車スハ44が指定席で連結されています。
これはネコパブリッシング刊「復刻版 昭和43年10月1日 国鉄白紙ダイヤ改正 全国版 優等列車編成順序表」にも収録されています。
また45-10改正時には1号車オハネフ12+2号車オロハネ10が米子の基本編成に組み入れられるという変化がありましたが、3号車スハ44は変化なしです。

スハ44の配置履歴を見ると、43-10改正のタイミングでスハ44 23と24の2両が米子に転入し、廃車までを過ごしています。
使用2両、配置も2両で予備車が無く、検査時はスハ43などが代走したかもしれませんが、竹下のスハ44を借りた可能性も考えられます。
廃車は23が1974.10.1、24が1975.2.17なので、新幹線博多開業に伴う50-3改正を待たずに引退したことになります。

https://i.imgur.com/tyran7W.jpeg


鉄爺
「急行さんべ」にかかるスハ44の運用
鉄爺です。
いつも楽しく拝見しています。
スハ44を使用した「急行さんべ」についてご教示いただきたく、投稿しました。
昭和46年(1971年)、大阪駅で銀河に連結されたスハ44をはじめて見て驚きました。旧型ハザ客車にもかかわらず、一方向きシートだったからです。
旧型ハザ客車といえば、ボックスシートが当たり前だからです。
いつか必ず乗ってみたいと思っていたのですが、スハ44は、指定席の運用が多く、貧乏学生の私には乗れませんでした。(当時は、均一周遊券の利用が多く、専ら自由席利用でした)
 また、銀河に連結されたマロネ41もあこがれの車両でしたが、乗れず終いでした。高い屋根と大きな窓は、独特の雰囲気を醸し出し、オーラ―がありました。

前置きが長くなりましたが、「急行さんべ」にスハ44は、使用されていたのでしょうか。
私は、昭和49年7月、長崎に珍車のマヤ20、北九州で96を撮影に行きました。帰路は、博多から浜田までさんべに乗車しました。その際、奮発して指定席車に乗車しましたが、ボックスシートの車両でがっかりしました。さんべというと、オロハネ10ばかりが注目されていますが、スハ44は、話題に挙がりませんでした。本当にスハ44が充当されていたのでしょうか。サイトを検索すると、その当時でもスハ44が充当されていたようです。
https://betsunoka.web.fc2.com/s/sanbe6.html
スハ44というと、銀河以外には、関西⇔下関・九州の寝台専用列車やワンランク上の列車に連結されており、さんべのようなローカル急行に使用されていたとは思えません。
当時のことをご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。
 よろしくお願いいたします。


国鉄マニアのモデラー
富士、燕(つばめ)以外の特急にEF55が使われた可能性について
こんばんは、国鉄マニアのモデラーです。
EF55は富士、燕、戦後はつばめに使用されていましたが、他の特急の牽引機にEF55が使用されたことはありましたか?
どなたか教えてください🙏


でる
Re7: 交通科学館食堂車について
太田拓也さま

マシ29の調理室撤去については、Twitterでの書き込みを見ただけですので、真偽は不明です。

とはいえ、そう考えると貴重な本物の全室食堂車の方をアッサリ解体したのも頷けますし、食堂前の看板もしっくりきます。

車内写真や、中で食事した人のお話が聞けるまで待たねばなりませんね。


テツヲヤヂ
RE: スハ32 田子の浦事故復旧車の車内
竹中@ノーブルジョーカーさま
貴重な情報、まことにありがとうございました。
あの車体にあの座席の取り合わせ・・・
違和感ばりばりですね。
乗ってみたかったです。


竹中@ノーブルジョーカー
RE:スハ32 田子の浦事故復旧車の車内
テツヲヤヂ様

東田子の浦事故の復旧車は興味深いですよね。私はオハフ33の1011と627の写真が撮れたのですが、細かな観察をしていませんでした。
解体待ちで留置されていたオハフ33の1011と1517を調査した報告が法政大学鉄道研究会の会報にあります。これによれば、「両者ともオハ35系と同じ座席である」と書かれています。1517の車内の画像もあるのですが、背もたれのフチはニス塗ではなくグレーのように見えます。近代化改造を受けているので妥当なところでしょうね。

ネガの痛みがひどくてお恥ずかしい写真ですが627をご覧ください。
オハフ33 627 昭和56年11月13日 若桜駅
https://i.imgur.com/GgJKvXn.jpeg


太田拓也
Re6: 交通科学館食堂車について
横レス失礼します。

マシが解体されたのって、休憩所に改装されて食堂車として保存されてなかったというのが理由だったのですね。小樽のキシ80も同じように改造されていました。なんで食堂車を原形のまま保存しないのか、今となっては貴重な資料なのに。

現存するスシ28は厨房こそ原形をとどめてますが、スハシを引退後に改造したため窓割りが不自然、旧客ではありえない横2+2といった違和感があります。ナシ20搬入後はかき氷でしか使われなかったようですが、1999年に食堂車100周年の企画展の関連で戦前の「富士」を再現したメニューで営業されたことがあります。京都鉄道博物館2階のどこかにあった食品サンプルと同じものが提供されました。


ナロ2051
仙コリ様
明瞭な返答ありがとうございました。なるほど寝台列車を含めて臨時
列車の設定が7往復有り、1974〜1975年の年末年始輸送が終了すれ
ば10系ハネの廃車が多数発生する
のも納得です。
 今さらですが、西日本から(勿論
JRではない)10系寝台が九州内を除いてほぼ壊滅状態になり、20系客車が東海道山陽から大幅に撤退するゴーマルサン迄が最後の客車ファンにとってよき時代だった気がします。(といってもほぼ半世紀前の話です。)
とって


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