過去ログ8 2023/1/26 22:47

仙コリ
Re8:マイネ40の片デッキ改造の時期とマロネ40への改番
クモイ103様

やはり昭和33年10月1日のものが最初のまとまった資料なのですね。
ありがとうございました。

マロネ40の転属については私もさらに調査しまして、昭和30年12月頃に
5両(16〜21)が品川から宮原へ転属となり、品川に14両・宮原に6両

さらに昭和32年1月に品川から竹下に2両(13と14)宮原から竹下に
3両(16〜18)が転属となり、品川に12両・宮原に3両・竹下に5両
といった布陣になり、昭和33年10月1日の配置と一致しました。

マイネ40時代については、まったくわかりませんでした。

私も、この頃の資料となると、個人的なお付き合いで提供頂いた資料
に頼る事が多く、断片的な情報をつなぎ合わせてといった作業が必須
といった状況です。

話題の主題から外れてしまい、申し訳ありません。


クモイ103
Re7:マイネ40の片デッキ改造の時期とマロネ40への改番
仙コリ様

客車の配置表で全国を網羅してまとめられたものは、
昭和33年10月1日のものが私の知る限り最初です。
それ以前については局報などの個別資料に頼らざるを得ません。
断片的なものは私の手元にもあるにはありますが、
個人的なお付き合いで提供頂いたものです。

昭和30年1月1日現在(東京鉄道管理局報 昭和30年1月27日号外)では、
品川にマイネ40の全20両が集結しています。
翌昭和31年1月1日現在(東京鉄道管理局報 昭和31年1月31日号外)では、
品川のマロネ40は1〜14の計14両のみで、東鉄管内の他区にマロネ40は居ません。
今お役に立てそうな情報はこれくらいです。


仙コリ
Re6:マイネ40の片デッキ改造の時期とマロネ40への改番
クモイ103様
フォローしていただきましてありがとうございます。
改番前の早期施工車はやはりあったのですね。

マイネ40の配置、及び「早鞆」の運用について少し調べてみました。

鉄道ピクトリアル2004年7月号特集オハ35系(1)によると、マイネ40の
落成時(1948年度)の配置は13・20・21が宮原、その他の18両が品川
となっているのですが、1954年5月時点では全車両が品川配置という
情報もあり、手持ちの資料の編成表(1950年から1955年にかけての
13例)によると、それまでに事故廃車となった15を除く全20両中12両
(4・6・7・9・10・11・12・13・14・16・18・21)が品川配置である
と確認することができまして、当初宮原配置であった13と21も含まれる
ため、マイネ40時代の終盤は全車両が品川配置であったと思われます。
(マロネ改番の少し後の1958年10月1日時点では
 品川 12両、竹下 5両、宮原 3両となっています。)

なお、上記編成記録は全て「銀河」「霧島」「筑紫」の編成記録であり、
「早鞆」の編成記録は見つける事が出来ませんでした。

「早鞆」の車両運用についてですが、肝心な部分が不明ですが、
マイネ40時代の東京−博多間の寝台車の運用は東101と東附101
マロネ40となってからの東京−博多間は同様に東101と東附101、
大阪回転車については東附102であることが分かりましたので、
マイネ40時代の大阪回転車も東附102運用であった可能性が
高いのではと思われます。

というわけで、早期改造施工車は「銀河」「霧島」「筑紫」「早鞆」
いずれにも使用された可能性はあるのかと思われます。

ところで、客車の配置表についてですが、私の手元にあるもので
もっとも古い物は昭和33年版なのですが、さらに古い配置表が
掲載されている資料はあるものでしょうか? Up 1/25 20:34


東ミハ
Re4:マイネ40の片デッキ改造の時期とマロネ40への改番
クモイ103 様

中々情報がないなか、ありがとうございます
一両だけでも車番を知ることができてよかったです。
自分でももう一度探してみて、他にもあればまたご報告したいと思います


ナイロフ
Re:一等展望車の帯標記について
仙コリ様
クモイ103様
情報提供ありがとうございます。
私は、昭和25年前後のスイテ37を模型で再現したく今回質問させていただいたのですが、マイテ39やスイテ49に標記があるということは同様にスイテ37にもそれがあったのだろうと確信を持てました。
今回ご紹介いただいた本も、絶版やもしれませんが機会があれば入手したいと思います。


クモイ103
Re4:マイネ40の片デッキ改造の時期とマロネ40への改番
すみません、訂正です。
マイネ40 1が大鉄局の所属と書きましたが、
他でもない「オハ35形の一族」中巻の写真にしっかり「東シナ」の表記がありました。
なので、「銀河」「霧島」「筑紫」に使用された可能性が考えられます。
(もしかして「早鞆」も?)
申し訳ありませんでした。


クモイ103
Re2:一等展望車の帯標記について
ナイロフ様
仙コリ様

「JGR」「JNR」標記についてちょっと補足させて頂きます。

仙コリ様が引用された「日本の展望客車(上)」にも引用されていますが、
「レイル '81 AUTUMN ■特集 客車特急展望車時代」で、
星晃氏が展望車の「JNR」標記について書かれた中に、
 > マイネ40なども同様で,国鉄の権利を少しでも主張したかった
 > 当時の日本人の気持の現われ
という記述があります。ですからナイロフ様が言われる通り、
「当時の一等車に例外なく付けられていた」ことと思います。

なお、「JGR」は Japanese Government Railways の略で、
1949年6月1日に公共企業体の日本国有鉄道が発足する以前のものです。
特急「平和」の登場はその3か月後ですから、1等展望車は当初から
「JNR」(Japanese National Railways)となりました。


クモイ103
Re3:マイネ40の片デッキ改造の時期とマロネ40への改番
東ミハ様
仙コリ様

マイネ→マロネ40の片デッキ改造の個別の時期は確かに資料がありませんね。
ただ、鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション10「国鉄客車開発記」に
再録された1955年8月号の記事「イネを始末する」(齋藤雅男)によると、
イネ廃止の時点で5両が改造済みだったようです。

「片デッキ化改造済みのマイネ40」の写真としては、車両史編さん会の
「国鉄鋼製客車史 第4編 オハ35形の一族」中巻P.17に掲載された
マイネ40 1の写真があります。1955年5月28日撮影と記されています。
一方「未改造のマロネ40」としては、前記の「国鉄客車開発記」P.119に、
マロネ40 14の写真があります。1955年8月撮影とのことです。

次に使用列車についてわかる範囲のお話しします。
マイネ40(及び41)は元々連合軍の指導で作られた外国人観光団用の客車なので、
一般列車の定期運用は非常に限られていました。
それがロネへの格下げを機に、一般列車に多数使用されるようになりました。

イネ時代に改造済みだったと唯一判明しているマイネ40 1は大鉄局の所属でした。
当時のマイネ40の一般列車運用で大阪が絡むものは、
東京−博多間1005・1006レ急行[早鞆]の東京−大阪間回転車がありますが、
これが大鉄局の運用だったのか、確実な情報が今出てきません。


仙コリ
Re:一等展望車の帯標記について
ナイロフ様

一等展望車の帯標記については、はっきりと写っている写真等が少ない
のが現状ですが、RM  LIBRARY 200 日本の展望客車(上)に
昭和24年9月に運転開始した戦後初の特急「へいわ」の展望車3両が
クリーム帯に「JNR」標記で登場したという記述と、接収はされた
ものの、使用部局がGHQの民間運輸局であったため、軍用客車には
組み入れられなかったスイテ47 1については、昭和22年の接収時に
展望車としては唯一、白帯に「JGR」標記になった、との記述が
あります。

また、同書34ページにマイテ39 21(1949年9月25日撮影)、48ページに
スイテ49 2(1950年8月9日撮影)の「JNR」標記が確認できる写真が
掲載されております。


東ミハ
Re:マイネ40の片デッキ改造の時期とマロネ40への改番
仙コリ様

お返事ありがとうございます
ですよね…自分も探しているのですが、中々見つからず。
ただ、以前ブラストモデルメーカーのアルモデルの担当者さんとお話しした際に、確かに写真で見た、というのです。確か早鞆?の車両だったと。でもどの資料かを忘れてしまったそうで…


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